壬生城下(読み)みぶじようか

日本歴史地名大系 「壬生城下」の解説

壬生城下
みぶじようか

[現在地名]壬生町壬生・本丸ほんまる一―二丁目・大師町だいしまち通町とおりまち中央町ちゆうおうちよう駅東町えきひがしまち元町もとまち表町おもてまち・いずみちよう

おもい(小倉川)支流のくろ川右岸(初めは左岸)に建設された城下町。近世を通じて存在した壬生藩の政庁壬生城を中心に町の建設が行われ、城下を日光に至る壬生通(日光西街道)が北上し、壬生宿が形成された。また宇都宮と結ぶ奥州中街道が発し、黒川右岸には壬生五河岸が設置され、交通の要衝であった。壬生の地名は宗長の「東路の津登」にみえるが、古く当地は上の原うえのはらと称したという。壬生城下は壬生町とよばれ、町は壬生通町・壬生表町に分れていた。しかし町の支配は村として位置付けられ、名主・年寄の村役によって行われていた。慶安郷帳(東野地誌本)に壬生本村、元禄郷帳・天保郷帳には壬生本郷とある。

〔成立と規模〕

寛正三年(一四六二)壬生胤業が当地に城を築いたというが(下野国誌)、城下町が整備され始めたのは壬生藩主日根野吉明時代の元和期(一六一五―二四)から寛永期(一六二四―四四)にかけてと考えられる。元和二年から三年にかけての日光東照宮造立の際には資材の輸送路として、完成後は大名・将軍の通行路として壬生通が用いられ、この間に宿の機能が整備されるとともに、城下町の町立てが行われたと考えられる。東照宮造立にあたっては当時の小山おやま城主本多正純とともに吉明が中心となった。壬生通は南から北上して城の東を通り、城を抱え囲むように西に折れ、北に抜けていく。南が表町、北が通町。この町の構成は寛永一六年から元禄五年(一六九二)まで在城した三浦氏の時代に成立したと考えられる。元禄五年頃までは壬生城の大手門は城の南にあり、大手から壬生通に沿った表町が商業的中心地であった。元禄五年から八年の松平輝貞の時に壬生城の改築が行われ、城下の町割も改められた。大手門は城の東に移され、商業的中心地も東部の通町に移った。表町には二・七、通町には四・九の六斎市が立ったが、正徳二年(一七一二)頃に表町の市が立っていないのは、この変化によるものであろう(「町明細帳」大島忠介文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の壬生城下の言及

【壬生[町]】より

…車塚古墳をはじめ史跡に指定された古墳は5基を数え,壬生通りの壬生一里塚も史跡となっている。【千葉 立也】
[壬生城下]
 下野国の城下町,壬生通りの宿場。15世紀中ごろ土豪壬生氏が城を構えたが,1590年(天正18)小田原征伐で滅亡した。…

※「壬生城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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