改訂新版 世界大百科事典 「外城制度」の意味・わかりやすい解説
外城制度 (とじょうせいど)
薩摩藩の行政制度。薩摩藩は藩主居城の鶴丸(鹿児島)城のほかに,領内を113の区画に割って,これを外城(普通には郷という)と呼んでいた。4人に1人は武士という過大人口の武士を扶持するために屯田兵制度をとったのであり,1615年(元和1)の一国一城令があるから,外城といっても城郭があるわけではなく,旧城跡の山麓かまたは城跡と無関係の平地に麓集落をつくっていた。しかし戦時には郷士は地頭指揮下に1軍団を形成したから,外城と呼んだのである。寛永年間(1624-44)以後は地頭も私領主も鹿児島定府となり,こうした地頭を掛持(かけもち)地頭と呼んだが,辺境の固めとして甑島(こしきじま)郷や長島郷には居地頭(いじとう)を,また出水(いずみ)・高岡・大口郷には地頭代を,都城郷には中抑(なかおさえ)を,山之口・倉岡・穆佐(むかさ)・綾・水引郷には抑を増置した。外城の支配は噯(あつかい)(郷士年寄)・組頭・横目の所三役(ところさんやく)の下に,庄屋・浦役・部当(べつとう)がそれぞれ百姓・浦人・野町人を支配し,その他多くの郷士役があった。このような末端にまで及ぶ郷士支配のため,百姓一揆は起こりえなかった。
執筆者:原口 虎雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報