江戸時代の武士は城下町居住を原則としていたが,これ以外に農村居住を原則としながら百姓ではなく,しかも武士的身分を与えられていたものが全国的に少なからず存在しており,これらを郷士と総称する。しかし,城下町に居住すべき正規の武士でありながら一時的に郷村に居住しているもの,また大藩の陪臣で主人の知行地に住んでいるものなどは郷士といわない。郷士は正規の武士より一段低い身分ではあったが,農民よりは上位の身分で,領内支配のかなめとなる場合もあった。郷士にはさまざまな種類があり,類型化は容易ではないが,大きくは(1)旧族郷士,(2)取立郷士に分けられる。(1)旧族郷士は,元来は正規の武士になるべきものが,近世初頭あるいはその後になんらかの事情により郷士となったもので,薩摩藩の外城(とじよう)衆,土佐藩の郷士,津藩や近江甲賀郡の無足人,十津川郷士などが知られている。日向延岡藩の小侍,郷足軽もこれにあたる。(2)取立郷士の種類はさまざまだが,多額の献金や新田開発などの功により郷士の格を与えられたものである。一藩内において旧族郷士と取立郷士が混在している場合も少なくない。薩摩藩や土佐藩の郷士は,若干の給地(無年貢地)を受け,それに百姓地(年貢地)を加えて農業経営を営み,かつ軍役を負担するものが多いが,こうした性格の郷士を郷士の基準型とすることができよう。このような郷士のほか,給地がごく少なく身分的にもあまり高いとは思われないもの(延岡藩の小侍や郷足軽),給地・給米のないもの(無足人),軍役を負担しないもの(十津川郷士)など,その性格はさまざまである。
土佐藩における郷士の成立は,1600年(慶長5)新藩主山内氏入封時における,旧国主長宗我部氏家臣団の積極的・消極的抵抗に端を発している。山内氏は彼らを懐柔するため13年に長宗我部氏遺臣の中からいわゆる慶長郷士を登用した。その後百人衆郷士,百人衆並郷士を取り立てた。これらはいずれも旧族郷士である。下って1763年(宝暦13)に幡多(はた)郷士,1822年(文政5)に仁井田,窪川郷士を取り立てたが,これらは新田開発による取立郷士である。また他譲郷士といって,郷士身分を他から譲り受けるようなこともしだいに広まった。日向延岡藩の小侍,郷足軽の起源は明らかでないが,1747年(延享4)入封した内藤氏は前藩主牧野氏からこの制度を引き継いだ。この年延岡藩には小侍49名,郷足軽93名がおり,各村に散在していた。彼らは藩境の番所の番人や藩の下級地方(じかた)役人として活動した。彼らの給地は多くは1石程度であった。
1872年(明治5)太政官布告により郷士の多くは士族となった。
執筆者:木村 礎
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江戸時代、農村に住んだ武士。基本的要件は家臣団の一員で、知行を宛行(あてが)われ、軍役を負担したが、城下士身分とは別の武士身分であること。農村に住んでいても一時的に滞在する城下士や、富裕農民のうち苗字(みょうじ)帯刀を許され、郷士株を購入して武士身分となった者などは含まれない。名称は異なるが、こうした武士は水戸、大垣、阿波(あわ)、土佐、熊本、人吉、鹿児島、対馬(つしま)など全国に存在した。ことに四国、九州の外様(とざま)藩に多く、とくに鹿児島(薩摩(さつま))藩は外城制(とじょうせい)(1783年外城を郷と改称)があって、人員が多いばかりでなく、構成比も高く(住民の2割程度)、藩政における役割は際だって大きかった。同藩では戦国期から近世初期にかけて、島津氏の家臣は大名の政策で移動し、境界地域には大名に信頼された部将が配置され、衆中(しゅうじゅう)として領内各地に住んだ。農村に住んだ武士は、時代とともに農村生活に溶け込んで農耕にかかわり半農半士となった。元禄(げんろく)年間(18世紀)以降、治安が安定化し、本城の城下を中核として身分の序列化が進むと、本城の城下に住んだ武士は城下士身分、農村に住んだ武士は郷士(1780年衆中は郷士と改称)身分に分けられた。1786年(天明6)、城下士と郷士身分間の婚姻が禁じられ、両者の間に身分的上下関係が生まれた。郷士の多くは麓(ふもと)集落に集住し、実態としては農民だったが支配身分意識が強く、農村では優勢者も多くいて、村役人や地主となった地域統治者も多かった。1872年(明治5)太政官布告により士族とされて、郷士の称は廃止された。1914年(大正3)戸籍法上身分登記制が廃止された際、士族の称が消滅した。
[三木 靖]
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江戸時代,農村に居住し武士的身分を与えられた者の総称。地域により存在形態や呼称は多様。一般に正規の家臣より一段低く扱われたが,給地を与えられ軍役を負担するなど藩家臣団の一員として位置づけられる。他方で農民同様に年貢地を耕作して農業経営を行うことも多い。郷士には中世の小土豪が兵農分離の際,武士にも百姓にもならず土着した場合と,近世に新田開発や献金により有力農民が郷士にとりたてられた場合がある。鹿児島藩の外城(とじょう)衆や高知藩の郷士など,西国の外様諸藩に多くみられた。生活様式は農民的でも武士意識が強く,藩の郷村支配にはたした役割も大きい。幕末期には大和国吉野の十津川(とつかわ)郷士のように政治的に重要な活動を行う者もいた。明治期以降,多くは士族とされた。
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…したがって家中とは,日本において封建的な家制度が完成したといわれるこの時代に,その家の構成員全体をよぶ場合に用いられた擬制的な同族呼称のことなのである。【鈴木 国弘】
[近世]
江戸時代には一藩内の城下居住の武士を,郷村居住の武士である郷士に対して,家中と称したが,広義には両者を合わせて家中と総称した。藩という公称を欠いた江戸時代には家中が藩または藩士の総称の意味にも使われた。…
…忠義の三男一安は江戸に麻布山内家を興し,子孫は本藩収納米のうちから1万石を分与されて,定府(じようふ)大名の土佐新田藩主となった。土佐藩士の身分は,家老,中老,馬廻(うままわり),小姓組,留守居組,郷士,用人,徒士(かち),足軽,武家奉公人等に分かれ,留守居組以上を上士(じようし),郷士以下を下士(かし)と称したが,のちその中間に白札身分が派生した。上士のほとんどは,藩祖一豊に従って来国した家系を誇り,高知の郭中に集住した。…
…
[人吉藩領]
人吉藩は1589年から人吉城築城にとりかかり,球磨川を挟んで城下町を形成した。人吉藩では武士の全部が城下町に集住せず,城下町のほか14外城に知行士,徒士(かち)の居住がみられたほか農村に郷士の居住がみられ,宝暦・明和の際(1760年代)農村人口の36%が郷士,諸奉公人であった。人吉藩は表高2万2100石であるが実高は5万2900石で財政は裕福であった。…
…【藤木 久志】(2)近世には切米取(きりまいとり),扶持米取(ふちまいとり)の下級武士をさす場合が多い。また伊勢津藩や近江甲賀郡では郷士的な上層農民を無足人といった。これとは逆に肥前唐津藩では水呑百姓を意味していた。…
※「郷士」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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