多可庄(読み)たかのしよう

日本歴史地名大系 「多可庄」の解説

多可庄
たかのしよう

現加西市の北東部に位置し、池上いけがみ町の日吉神社を惣社とするものと考えられる。庄域は現河内こうち町・山田やまだ町・和泉いずみ町・池上町・西野々にしのの町・満久まく町・しま町・中富なかとみ町・笹倉ささくら町・別府べふ町・都染つそめ町・野上のがみ町・馬渡谷もうたに町・大工だいく町・鍛治屋かじや町・青野あおの町・油谷ゆだに町・田谷たや町・小印南こいなみ町・国正くにまさ町の地域にあたる。

〔室町院領〕

「経俊卿記」正嘉元年(一二五七)四月二一日条に多可庄とみえ、この日土御門大納言源通成が多可庄の対捍について後嵯峨上皇に奏上している。院領と記されるのは室町院領とみるべきであろう。室町院は後堀河天皇の第一皇女で、名は暉子。安嘉門院の死去三十五日忌にあたる弘安六年(一二八三)一〇月九日、室町院が曼陀羅供を催した。この布施が当庄に割当てられている。知行者は花山院大納言長雅である(勘仲記)。室町院死去後、当庄は大覚寺統の亀山上皇によって管領されるが、嘉元三年(一三〇五)七月、同上皇の遺言により持明院統の後伏見上皇に遺贈された(同月二六日「亀山上皇処分状案」亀山院御凶事記)。翌四年六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)には多可庄が新院後伏見上皇の所領となっており、知行者は前任者長雅の子息鷹司前大納言家雅で、年貢は二五〇貫文であるという。当庄は大納言級の公家が一種の俸禄として知行したものらしい。元弘三年(一三三三)六月七日には大覚寺統の後醍醐天皇が当庄など持明院統の所領を後伏見上皇に安堵しており(「園太暦」観応二年一一月二六日条)、その後光厳上皇に伝領される。建武三年(一三三六)八月三〇日、足利尊氏は当庄の地頭職他所へは与えない旨を光厳上皇に申出ている(「足利尊氏書状」京都御文庫文書)

〔大光明寺領〕

文和元年(一三五二)、光厳上皇は南朝によって大和へ連去られ、のちに河内金剛こんごう(現大阪府河内長野市)に幽閉された。留守の間に室町幕府は多可庄地頭職を赤松貞範に与えてしまう。延文二年(一三五七)二月に光厳法皇(上皇は幽閉中に出家)が京都へ帰還したので、幕府は貞範に替地を宛行い当庄地頭職を法皇に還付した(同年五月一日「足利義詮御判御教書」赤松文書)。法皇は同年八月に死去した実母広義門院寧子の追善塔頭料所として、これを大光明だいこうみよう(現京都市伏見区)に寄進したので大光明寺領多可庄と称された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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