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多田行綱 ただゆきつな

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

多田行綱 ただ-ゆきつな

?-? 平安時代後期の武将。
清和源氏の流れで摂津多田荘(兵庫県)を本拠とする。鹿ケ谷(ししがたに)事件では平氏打倒の謀議を平清盛に密告したが,寿永2年(1183)摂津・河内(かわち)で反平氏勢力を組織。のち源頼朝と対立して西海へのがれる源義経を摂津河尻で攻撃した。通称は多田太郎,多田蔵人。

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世界大百科事典 第2版の解説

ただゆきつな【多田行綱】

平安末期の武将。生没年不詳。摂津源氏頼盛の子。通称多田蔵人,六条蔵人。のち伯耆守となる。1177年(治承1)鹿ヶ谷(ししがたに)事件に加わったが,形勢不利と見て平清盛に内通。その後も木曾義仲,源義経と変転する権力者に忠勤し,85年(文治1)源頼朝に所領を没収されるや,すぐさま都落ちする義経軍を裏切るという変り身の早さを見せたが,結局没落していったらしい。【青山 幹哉】

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世界大百科事典内の多田行綱の言及

【鹿ヶ谷事件】より

…平氏一門の急速な台頭は貴族層との対立を激化していたが,藤原成親は左近衛大将の地位をのぞんでいれられず,しかも平重盛・宗盛が左右大将に任命されたので平氏を憎み,上記の西光らの院近臣や北面武士の多田蔵人行綱らと結んで平氏討滅の密議を重ねるにいたった。祇園会の騒ぎに乗じて六波羅を攻撃する計画をたてたが,多田行綱の密告により発覚。6月1日清盛は関係者を捕らえ,西光を斬殺,成親を備前へ配流(のち殺す),成経・康頼・俊寛を九州鬼界ヶ島へ流した。…

※「多田行綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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