改訂新版 世界大百科事典 「鹿ヶ谷事件」の意味・わかりやすい解説
鹿ヶ谷事件 (ししがたにじけん)
1177年(治承1)後白河法皇の近臣が平氏打倒を企てた陰謀事件。権大納言藤原成親,僧西光(藤原師光)が中心となり,平康頼,僧俊寛,藤原成経(成親の子)らが加わった。俊寛の京都東山鹿ヶ谷の山荘で謀議をこらしたので,こう呼ばれる。平氏一門の急速な台頭は貴族層との対立を激化していたが,藤原成親は左近衛大将の地位をのぞんでいれられず,しかも平重盛・宗盛が左右大将に任命されたので平氏を憎み,上記の西光らの院近臣や北面武士の多田蔵人行綱らと結んで平氏討滅の密議を重ねるにいたった。祇園会の騒ぎに乗じて六波羅を攻撃する計画をたてたが,多田行綱の密告により発覚。6月1日清盛は関係者を捕らえ,西光を斬殺,成親を備前へ配流(のち殺す),成経・康頼・俊寛を九州鬼界ヶ島へ流した。この事件によって後白河法皇と清盛の対立は決定的になる。翌年成経・康頼は許され帰京するが,俊寛は許されなかった。
執筆者:田中 文英
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報