大久保利通(読み)オオクボトシミチ

デジタル大辞泉 「大久保利通」の意味・読み・例文・類語

おおくぼ‐としみち〔おほくぼ‐〕【大久保利通】

[1830~1878]政治家。薩摩さつま藩出身。討幕派の中心人物で、薩長同盟の推進者。版籍奉還廃藩置県を敢行し、西郷隆盛らの征韓論に反対。参議大蔵卿おおくらきょう内務卿を歴任、明治政府の指導的役割を果たした。不平士族により暗殺された。維新の三傑の一人。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「大久保利通」の意味・読み・例文・類語

おおくぼ‐としみち【大久保利通】

  1. 明治維新の指導者。旧薩摩藩士。通称正助。旧名一蔵。西郷隆盛らとともに討幕運動を推進。維新後、参与・参議として、版籍奉還、廃藩置県を行ない、大蔵卿となる。のち征韓派を押さえ、内務卿となって政府の実権を握り、地租改正・征台の役の計画、西南戦争の鎮圧などに尽力。不平士族島田一郎らに東京紀尾井坂で刺殺された。天保元~明治一一年(一八三〇‐七八

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大久保利通」の意味・わかりやすい解説

大久保利通
おおくぼとしみち
(1830―1878)

幕末・明治前期の政治家。木戸孝允(きどたかよし)、西郷隆盛(さいごうたかもり)とともに「維新三傑」の一人。薩摩(さつま)藩下級武士の出身。正助、一蔵と称し、のちに利通と改め、また甲東(こうとう)と号した。その生涯は、幕末討幕派の下級武士から維新政府官僚に成長、転身する前半と、政府の最高の実権者として独裁体制を確立し、富国強兵のための開明的政策を順次施行した後半の2期に区分できよう。利通は文政(ぶんせい)13年8月10日鹿児島城下高麗(こうらい)町で生まれ、まもなく加治屋(かじや)町に移住。生家は西郷隆盛の家格と同じく、御小姓組(おこしょうぐみ)に属した。利通は17歳で記録所書役助に任ぜられたが、1849年(嘉永2)に起こった薩摩藩主の家督争いである「お由良(ゆら)騒動」(別に「高崎崩れ」ともいう)に巻き込まれ、父利世が流罪になったため、一家は困窮した。このとき利通は藩内の尊攘派(そんじょうは)下士たちと交わり、政治に開眼した。その後、同藩内の高崎派が支持する島津斉彬(しまづなりあきら)が家督を継いで藩の実権を握ると、父利世は赦免された。

 そのころ利通は、「名君」といわれた藩主斉彬のもとで西郷隆盛らと志を通じ、同藩の改革派下士層の中心として活躍を始めた。しかし、1858年(安政5)斉彬の死去、安政(あんせい)の大獄を契機に、利通は島津久光(ひさみつ)(斉彬の異母弟)のもとで藩の意見の統一を図り、公武合体運動を推進する方向で活躍した。久光の引き立てによって、利通は1860年(万延1)勘定方小頭(こがしら)、ついで御小納戸(おこなんど)頭取へ昇任し、藩政の中枢へ進出した。当時、彼は藩政指導層と下士層を結ぶかなめにあり、しだいに藩政の実権を掌握する立場に接近した。1866年(慶応2)、かねて西郷と提携して活躍していた利通は、長州藩士品川弥二郎(しながわやじろう)らとも結び、さらに討幕派公卿(くぎょう)の岩倉具視(いわくらともみ)をも引き入れ薩長同盟を締結するに及び、その立場は藩政の方針を超えて、公武合体から武力討幕へと転換するに至った。こうして利通らは、朝廷より薩摩藩あてに討幕の密勅を下賜させることに成功し、討幕派の有力者として王政復古の大号令発布を実現させ、明治維新の指導者となった。

 新政府の成立とともに、利通はその指導者の一人として、参与から徴士(ちょうし)そして参与内国事務局判事、さらに参議へ昇任して内政の中枢を握り、また木戸孝允らとともに、版籍奉還、ついで廃藩置県を断行した。当時、元討幕派公卿と薩長土肥などの旧西南雄藩出身者から構成される雄藩連合政権のもとで、大蔵省を拠点に木戸と結んでいた大蔵卿(きょう)大隈重信(おおくましげのぶ)の開明的姿勢と比べて、利通は保守的そして漸進的態度をとり、その政治勢力も木戸―大隈らのそれに一歩譲っていた。しかし廃藩置県の直前に、大蔵卿に就任すると、政府財政の基礎確立のため地租改正を提案し、のちに地租改正事務局総裁としてその事業にあたり、また富国強兵を目ざして、殖産興業政策を発足させることになる。それに先だって、1871年(明治4)、利通は、岩倉具視特命全権大使が率いる遣外使節団の米欧巡回に副使として加わり、米欧先進諸国を視察し、とくにイギリスでは工業と貿易の発展、プロイセンでは軍事力の拡充などに注目、強い衝撃を受けた。

 約1か年半余りの外遊から帰国した利通は、その対外経験から、国力充実の必要を説き、西郷らの征韓論を退け、彼らを下野させたのち、内政担当の中央官庁である内務省の新設を構想して、1873年にそれを発足させた。当時、同省は勧業、警保の2寮を中心に殖産行政と警察行政を担当、資本主義の育成と民衆運動に対する治安取締りにあたり、利通が参議内務卿として独裁支配を振るう基盤となった。いわゆる「大久保政権」とは、旧討幕派雄藩出身の政府官僚を中心に、一部の旧幕臣出身者などを含めて固めた内務省中心の大久保専制支配であり、最初の絶対主義統一政権であった。同省に依拠した彼は、一方で農林、牧畜部門などの在来産業に配慮した殖産興業改策を進め、そして他方で、西南戦争(1877)を通じて、旧盟友の西郷を支持する不平士族反乱軍を武力鎮圧するとともに、地租軽減の一時的譲歩で農民一揆(いっき)の高揚を回避し、1877年の政治危機を乗り越えた。

 幕末政争以来、利通の政治的行動は、終始権力の中枢に密着し、内務省開設以後は同省を基盤に独裁政治を進めた絶対主義官僚であったため、不平士族の島田一郎らに批判され、明治11年5月14日東京の紀尾井(きおい)坂で暗殺された。利通の政治的力量は、将来についての鋭い展望の能力と、現実に立脚した着実な漸進主義という点で、当時の政府官僚群のなかではもっとも優れていたが、反面、冷徹で非情な性格の持ち主でもあったといわれる。

[石塚裕道]

『勝田孫彌著『大久保利通伝』全3巻(1910~1911・同文舘出版)』『毛利敏彦著『大久保利通』(1969・中央公論社)』『佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「大久保利通」の意味・わかりやすい解説

大久保利通【おおくぼとしみち】

初期明治政府の中枢にあった政治家。通称一蔵。号は甲東。西郷隆盛とともに薩摩鹿児島藩の下級武士集団の中心人物。島津久光に信任され西郷,小松帯刀らと公武合体運動に尽力。やがて倒幕運動に転じ,西郷や岩倉具視,長州藩士らと結んで王政復古戊辰戦争を主導し明治政府を樹立。以後木戸孝允らと版籍奉還廃藩置県を断行した。岩倉使節団の副使として随行しビスマルク専制政治の影響を受けて帰国。1873年以後内務卿として事実上政府の実権を握り,地租改正事業,殖産興業政策を行い資本主義発展に努め,絶対主義的天皇制の布石をしいたが,紀尾井坂の変で暗殺された。
→関連項目伊藤博文大阪会議小御所会議小松帯刀佐賀の乱佐佐木高行薩英戦争薩土盟約参議三職士族反乱征韓論千住製絨所台湾出兵藩閥政治牧野伸顕松方正義

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「大久保利通」の意味・わかりやすい解説

大久保利通 (おおくぼとしみち)
生没年:1830-78(天保1-明治11)

幕末,明治初期の政治家。西郷隆盛,木戸孝允と並んで〈明治維新の三傑〉といわれる。薩摩藩士大久保利世の長男に出生。若年,開国後の緊迫した世情をうけて,薩摩藩尊王攘夷グループのリーダーとなり,1859年(安政6),大老井伊直弼(いいなおすけ)襲撃を計画したが未遂,しかし,これをきっかけに藩政実力者の島津久光の知遇を得て側近に抜擢(ばつてき)され,尊攘論から公武合体論に転向した。62年(文久2),久光の公武合体・幕政改革の運動に参画,一橋慶喜を将軍後見職に,松平慶永を政事総裁職につけるのに成功し,その名を広く天下に知られるようになった。64年(元治1),参預会議の決裂で幕薩関係が悪化すると,西郷隆盛と組んで,長州再征反対,徳川慶喜将軍職就任妨害,兵庫開港4侯会議画策など多面的な反幕政治活動を展開して幕府を追いつめた。68年(明治1)12月9日,岩倉具視と提携して王政復古クーデタを敢行,明治維新政府を発足させた。

 新政府の中枢にあって参与,内国事務掛,総裁局顧問,鎮将府参与を歴任し,政権の基礎固めにあたった。さらに木戸孝允らと版籍奉還を推進し,69年6月17日に実現,諸藩領有権を政府に統合した。同年,参議,従三位賞典禄1800石をうけた。ところが政府部内で木戸派と対立が激化,対抗して鹿児島にいた西郷を政府に迎え入れ,大蔵卿に転任,71年7月14日,西郷の指導力のもと廃藩置県が断行され,政府は名実ともに全日本を統治下におくことになった。廃藩後の重要課題は条約改正であったが,その実現に野心をもやす肥前派の参議大隈重信に外交上の実権が移るのを阻むねらいで,岩倉使節団を組織し全権副使に就任,11月,アメリカ,ヨーロッパ各国訪問に出発した。しかし,条約改正を実現できず,73年5月,失意のうちに帰国。勢力挽回をはかって,10月12日,参議に返り咲くと,宮廷陰謀を駆使して西郷大使朝鮮派遣計画を葬り,留守政府派参議の追い出しに成功した(明治6年政変)。11月,初代内務卿を兼任,これ以後,いわゆる大久保独裁(有司専制)の時期に入った。74年,佐賀の乱鎮定の全権を帯び,つづいて台湾出兵の後始末のため全権弁理大臣となって北京に赴き,清国側全権との間に〈日清両国間互換条款及互換憑単〉を締結,その結果,日本の琉球領有が国際的に承認されることになった。75年1月,大阪会議で木戸,板垣退助と妥協し,漸進的に立憲政治に移行する方針をうちだした。また,地租改正事務局総裁や内国勧業博覧会総裁などを兼ね,殖産興業にも心をかたむけた。76年,各地で士族反乱がおきると,地租を軽減して不平士族と農民のむすびつきを防ぎ,77年の西南戦争を積極的に鎮定した。78年5月14日,東京紀尾井坂で石川県士族島田一郎ら6名に暗殺された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「大久保利通」の解説

大久保 利通
オオクボ トシミチ


肩書
内務卿

別名
前名=利済 通称=正助 一蔵 号=甲東

生年月日
文政13年8月10日(1830年)

出生地
薩摩国鹿児島城下高麗町(鹿児島県)

経歴
薩摩藩出身。幼少時より西郷隆盛と交わる。弘化3年(1846年)薩摩藩記録所助役として出任。島津斉彬の改革に参画、のち久光の下で公武合体運動を進めた。慶応2年木戸孝允と薩長連合を成立させ、討幕派の中心人物として、岩倉具視と組んで王政復古クーデターなど倒幕への過程で暗躍した。維新後の明治2年参議となり、版籍奉還や廃藩置県を推進する。4〜6年岩倉遣外使節団副使として欧米視察。帰国後は征韓論に反対の立場をとり、征韓派退陣後は内務卿を兼任、地租改正・殖産興業などによる資本主義育成政策を推進。7年佐賀の乱、台湾出兵、10年西南戦争の処理にあたり、内政の整備に奔走していた矢先に暗殺された。著書に「大久保利通日記」(全2巻)、「大久保利通文書」(全10巻)がある。

没年月日
明治11年4月14日

家族
息子=牧野 伸顕(宮内相) 大久保 利賢(銀行家) 孫=大久保 利謙(日本近代史学者)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「大久保利通」の解説

大久保利通
おおくぼとしみち

1830.8.10~78.5.14

幕末~明治初期の政治家,明治維新の指導者。幼名は一蔵,号は甲東(こうとう)。鹿児島藩下級藩士の出身。藩主島津斉彬(なりあきら)の信任をうけ,その死後は島津久光のもとで藩政改革・国事に奔走。西郷隆盛らとともに倒幕運動を推進し,1867年(慶応3)12月,岩倉具視(ともみ)らと連携して王政復古の政変を実現。新政府の参与・参議・大蔵卿などを務め,版籍奉還・廃藩置県に尽力。71~73年(明治4~6)岩倉遣外使節団の副使として欧米諸国を視察。帰国後,西郷隆盛の朝鮮派遣(征韓論)に反対して明治6年の政変を招いた。政変後,参議兼内務卿として明治政府の中心となり,殖産興業政策に全力をそそぐとともに,漸進的な立憲政体の樹立をめざすなど日本の近代化の推進に努めた。74年清国に赴き台湾出兵の善後処理に従事。あいつぐ保守派士族の反乱に強硬姿勢で対処。77年西郷を擁する鹿児島士族の反乱(西南戦争)の鎮圧にあたったが,翌年5月14日,不平士族に襲われ死去。維新の三傑の1人。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大久保利通」の意味・わかりやすい解説

大久保利通
おおくぼとしみち

[生]文政13(1830).8.10. 鹿児島
[没]1878.5.14. 東京
明治の元勲。薩摩藩士として,明治維新の公武合体運動,討幕運動に活躍。維新政府成立後,明治2 (1869) 年参議,同4年大蔵卿を経て,1873年内務省設置とともに内務卿に就任。版籍奉還,廃藩置県などの実現に努めた。明治4年岩倉具視に従って遣欧使節団に加わったが,73年5月征韓問題で帰国し,内治優先を主張して征韓派を辞職に追込んだ。佐賀の乱を鎮圧したのち,台湾出兵を推進し,その処理のため 74年9月北京におもむき,全権弁理大臣として清国との交渉に成功,同 10月日清両国間互換条款に調印した。他方,殖産興業,地租改正,秩禄処分など近代産業国家としての基盤を整備する諸策を断行したが,その近代化,欧化政策は旧士族層の怨嗟を買った。旧薩摩藩士族に擁立された西郷隆盛による西南戦争を山県有朋指揮下の政府軍によって平定。太政官政府を武力内乱による危険から除いた翌年,石川県士族島田一郎によって東京紀尾井坂で暗殺された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大久保利通」の解説

大久保利通 おおくぼ-としみち

1830-1878 幕末-明治時代の政治家。
文政13年8月10日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。島津久光に信任され小納戸役となる。西郷隆盛,岩倉具視(ともみ)とむすんで討幕運動の中心となり,明治政府を樹立。木戸孝允(たかよし)らと版籍奉還,廃藩置県をおこなう。明治4年大蔵卿となり,岩倉遣外使節団副使。6年参議となり西郷隆盛の征韓論をしりぞけ,同年内務卿を兼任。佐賀の乱,神風連の乱,西南戦争などを鎮圧。地租改正をおこない,元老院,大審院,地方官会議の設置による立憲制の樹立をめざした。明治11年5月14日東京紀尾井(きおい)坂で石川県士族島田一良(いちろう)らに暗殺された。49歳。初名は利済。通称は正助,のち一蔵。号は甲東。
【格言など】為政清明(暗殺される朝の揮毫)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「大久保利通」の解説

大久保利通
おおくぼとしみち

1830〜78
幕末・明治初期の政治家。「維新の三傑」の一人
通称正助,のちに一蔵 (いちぞう) 。薩摩藩出身。討幕運動を指導し,薩長連合・王政復古の実現に努力した。明治新政府の参与・参議として版籍奉還・廃藩置県を断行。1871年岩倉遣外使節に副使として随行し,'73年帰国後西郷隆盛らの征韓論に反対。内務卿として実権を握って政府の中心となり,地租改正・殖産興業政策を推進。'78年東京紀尾井坂清水谷で不平士族に暗殺された。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「大久保利通」の解説

大久保利通

瀧井一博の著作。副題「知を結ぶ指導者」。2022年刊行。第76回毎日出版文化賞(人文・社会部門)受賞。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の大久保利通の言及

【大阪会議】より

…征韓論による政府内部の対立のため,西郷隆盛,板垣退助らが下野し,次いで参議木戸孝允も台湾出兵などに反対してその職を辞した。こうして〈有司専制〉支配を固めて,政権の土台を確立しようとしていた参議・内務卿大久保利通の地位は孤立した。そのころ高まってきた農民一揆や自由民権運動のなかで,参議井上馨,伊藤博文らは事態を憂慮し,木戸や当時自由民権家となった板垣と大久保を和解させ,政府権力の強化をはかろうとした。…

【佐賀の乱】より

…74年2月1日,3000余人(のち1万1000余に達する)は小野商会を襲って行動を起こした。佐賀の権令は任命されたばかりの岩村高俊だったが,参議大久保利通が全権をうけて出張し,熊本・大阪2鎮台兵が海陸から出兵した。16日,征韓・憂国軍は県庁を包囲,18日,権令岩村は筑後に逃れた。…

【島田一良】より

…大久保利通襲撃の首謀者。金沢藩士。…

【内務省】より

…だが,この渦中に岩倉使節団が帰国する。そして征韓論に反対する大久保利通,木戸孝允らと西郷派との政治的対立が高じた。征韓論が大久保らによって否定され,征韓派は明治政府から下野した。…

※「大久保利通」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android