幕末・明治前期の政治家。木戸孝允(きどたかよし)、西郷隆盛(さいごうたかもり)とともに「維新三傑」の一人。薩摩(さつま)藩下級武士の出身。正助、一蔵と称し、のちに利通と改め、また甲東(こうとう)と号した。その生涯は、幕末討幕派の下級武士から維新政府官僚に成長、転身する前半と、政府の最高の実権者として独裁体制を確立し、富国強兵のための開明的政策を順次施行した後半の2期に区分できよう。利通は文政(ぶんせい)13年8月10日鹿児島城下高麗(こうらい)町で生まれ、まもなく加治屋(かじや)町に移住。生家は西郷隆盛の家格と同じく、御小姓組(おこしょうぐみ)に属した。利通は17歳で記録所書役助に任ぜられたが、1849年(嘉永2)に起こった薩摩藩主の家督争いである「お由良(ゆら)騒動」(別に「高崎崩れ」ともいう)に巻き込まれ、父利世が流罪になったため、一家は困窮した。このとき利通は藩内の尊攘派(そんじょうは)下士たちと交わり、政治に開眼した。その後、同藩内の高崎派が支持する島津斉彬(しまづなりあきら)が家督を継いで藩の実権を握ると、父利世は赦免された。
そのころ利通は、「名君」といわれた藩主斉彬のもとで西郷隆盛らと志を通じ、同藩の改革派下士層の中心として活躍を始めた。しかし、1858年(安政5)斉彬の死去、安政(あんせい)の大獄を契機に、利通は島津久光(ひさみつ)(斉彬の異母弟)のもとで藩の意見の統一を図り、公武合体運動を推進する方向で活躍した。久光の引き立てによって、利通は1860年(万延1)勘定方小頭(こがしら)、ついで御小納戸(おこなんど)頭取へ昇任し、藩政の中枢へ進出した。当時、彼は藩政指導層と下士層を結ぶかなめにあり、しだいに藩政の実権を掌握する立場に接近した。1866年(慶応2)、かねて西郷と提携して活躍していた利通は、長州藩士品川弥二郎(しながわやじろう)らとも結び、さらに討幕派公卿(くぎょう)の岩倉具視(いわくらともみ)をも引き入れ薩長同盟を締結するに及び、その立場は藩政の方針を超えて、公武合体から武力討幕へと転換するに至った。こうして利通らは、朝廷より薩摩藩あてに討幕の密勅を下賜させることに成功し、討幕派の有力者として王政復古の大号令発布を実現させ、明治維新の指導者となった。
新政府の成立とともに、利通はその指導者の一人として、参与から徴士(ちょうし)そして参与内国事務局判事、さらに参議へ昇任して内政の中枢を握り、また木戸孝允らとともに、版籍奉還、ついで廃藩置県を断行した。当時、元討幕派公卿と薩長土肥などの旧西南雄藩出身者から構成される雄藩連合政権のもとで、大蔵省を拠点に木戸と結んでいた大蔵卿(きょう)大隈重信(おおくましげのぶ)の開明的姿勢と比べて、利通は保守的そして漸進的態度をとり、その政治勢力も木戸―大隈らのそれに一歩譲っていた。しかし廃藩置県の直前に、大蔵卿に就任すると、政府財政の基礎確立のため地租改正を提案し、のちに地租改正事務局総裁としてその事業にあたり、また富国強兵を目ざして、殖産興業政策を発足させることになる。それに先だって、1871年(明治4)、利通は、岩倉具視特命全権大使が率いる遣外使節団の米欧巡回に副使として加わり、米欧先進諸国を視察し、とくにイギリスでは工業と貿易の発展、プロイセンでは軍事力の拡充などに注目、強い衝撃を受けた。
約1か年半余りの外遊から帰国した利通は、その対外経験から、国力充実の必要を説き、西郷らの征韓論を退け、彼らを下野させたのち、内政担当の中央官庁である内務省の新設を構想して、1873年にそれを発足させた。当時、同省は勧業、警保の2寮を中心に殖産行政と警察行政を担当、資本主義の育成と民衆運動に対する治安取締りにあたり、利通が参議内務卿として独裁支配を振るう基盤となった。いわゆる「大久保政権」とは、旧討幕派雄藩出身の政府官僚を中心に、一部の旧幕臣出身者などを含めて固めた内務省中心の大久保専制支配であり、最初の絶対主義統一政権であった。同省に依拠した彼は、一方で農林、牧畜部門などの在来産業に配慮した殖産興業改策を進め、そして他方で、西南戦争(1877)を通じて、旧盟友の西郷を支持する不平士族反乱軍を武力鎮圧するとともに、地租軽減の一時的譲歩で農民一揆(いっき)の高揚を回避し、1877年の政治危機を乗り越えた。
幕末政争以来、利通の政治的行動は、終始権力の中枢に密着し、内務省開設以後は同省を基盤に独裁政治を進めた絶対主義官僚であったため、不平士族の島田一郎らに批判され、明治11年5月14日東京の紀尾井(きおい)坂で暗殺された。利通の政治的力量は、将来についての鋭い展望の能力と、現実に立脚した着実な漸進主義という点で、当時の政府官僚群のなかではもっとも優れていたが、反面、冷徹で非情な性格の持ち主でもあったといわれる。
[石塚裕道]
『勝田孫彌著『大久保利通伝』全3巻(1910~1911・同文舘出版)』▽『毛利敏彦著『大久保利通』(1969・中央公論社)』▽『佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)』
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幕末,明治初期の政治家。西郷隆盛,木戸孝允と並んで〈明治維新の三傑〉といわれる。薩摩藩士大久保利世の長男に出生。若年,開国後の緊迫した世情をうけて,薩摩藩尊王攘夷グループのリーダーとなり,1859年(安政6),大老井伊直弼(いいなおすけ)襲撃を計画したが未遂,しかし,これをきっかけに藩政実力者の島津久光の知遇を得て側近に抜擢(ばつてき)され,尊攘論から公武合体論に転向した。62年(文久2),久光の公武合体・幕政改革の運動に参画,一橋慶喜を将軍後見職に,松平慶永を政事総裁職につけるのに成功し,その名を広く天下に知られるようになった。64年(元治1),参預会議の決裂で幕薩関係が悪化すると,西郷隆盛と組んで,長州再征反対,徳川慶喜将軍職就任妨害,兵庫開港4侯会議画策など多面的な反幕政治活動を展開して幕府を追いつめた。68年(明治1)12月9日,岩倉具視と提携して王政復古クーデタを敢行,明治維新政府を発足させた。
新政府の中枢にあって参与,内国事務掛,総裁局顧問,鎮将府参与を歴任し,政権の基礎固めにあたった。さらに木戸孝允らと版籍奉還を推進し,69年6月17日に実現,諸藩領有権を政府に統合した。同年,参議,従三位賞典禄1800石をうけた。ところが政府部内で木戸派と対立が激化,対抗して鹿児島にいた西郷を政府に迎え入れ,大蔵卿に転任,71年7月14日,西郷の指導力のもと廃藩置県が断行され,政府は名実ともに全日本を統治下におくことになった。廃藩後の重要課題は条約改正であったが,その実現に野心をもやす肥前派の参議大隈重信に外交上の実権が移るのを阻むねらいで,岩倉使節団を組織し全権副使に就任,11月,アメリカ,ヨーロッパ各国訪問に出発した。しかし,条約改正を実現できず,73年5月,失意のうちに帰国。勢力挽回をはかって,10月12日,参議に返り咲くと,宮廷陰謀を駆使して西郷大使朝鮮派遣計画を葬り,留守政府派参議の追い出しに成功した(明治6年政変)。11月,初代内務卿を兼任,これ以後,いわゆる大久保独裁(有司専制)の時期に入った。74年,佐賀の乱鎮定の全権を帯び,つづいて台湾出兵の後始末のため全権弁理大臣となって北京に赴き,清国側全権との間に〈日清両国間互換条款及互換憑単〉を締結,その結果,日本の琉球領有が国際的に承認されることになった。75年1月,大阪会議で木戸,板垣退助と妥協し,漸進的に立憲政治に移行する方針をうちだした。また,地租改正事務局総裁や内国勧業博覧会総裁などを兼ね,殖産興業にも心をかたむけた。76年,各地で士族反乱がおきると,地租を軽減して不平士族と農民のむすびつきを防ぎ,77年の西南戦争を積極的に鎮定した。78年5月14日,東京紀尾井坂で石川県士族島田一郎ら6名に暗殺された。
執筆者:毛利 敏彦
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1830.8.10~78.5.14
幕末~明治初期の政治家,明治維新の指導者。幼名は一蔵,号は甲東(こうとう)。鹿児島藩下級藩士の出身。藩主島津斉彬(なりあきら)の信任をうけ,その死後は島津久光のもとで藩政改革・国事に奔走。西郷隆盛らとともに倒幕運動を推進し,1867年(慶応3)12月,岩倉具視(ともみ)らと連携して王政復古の政変を実現。新政府の参与・参議・大蔵卿などを務め,版籍奉還・廃藩置県に尽力。71~73年(明治4~6)岩倉遣外使節団の副使として欧米諸国を視察。帰国後,西郷隆盛の朝鮮派遣(征韓論)に反対して明治6年の政変を招いた。政変後,参議兼内務卿として明治政府の中心となり,殖産興業政策に全力をそそぐとともに,漸進的な立憲政体の樹立をめざすなど日本の近代化の推進に努めた。74年清国に赴き台湾出兵の善後処理に従事。あいつぐ保守派士族の反乱に強硬姿勢で対処。77年西郷を擁する鹿児島士族の反乱(西南戦争)の鎮圧にあたったが,翌年5月14日,不平士族に襲われ死去。維新の三傑の1人。
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…征韓論による政府内部の対立のため,西郷隆盛,板垣退助らが下野し,次いで参議木戸孝允も台湾出兵などに反対してその職を辞した。こうして〈有司専制〉支配を固めて,政権の土台を確立しようとしていた参議・内務卿大久保利通の地位は孤立した。そのころ高まってきた農民一揆や自由民権運動のなかで,参議井上馨,伊藤博文らは事態を憂慮し,木戸や当時自由民権家となった板垣と大久保を和解させ,政府権力の強化をはかろうとした。…
…74年2月1日,3000余人(のち1万1000余に達する)は小野商会を襲って行動を起こした。佐賀の権令は任命されたばかりの岩村高俊だったが,参議大久保利通が全権をうけて出張し,熊本・大阪2鎮台兵が海陸から出兵した。16日,征韓・憂国軍は県庁を包囲,18日,権令岩村は筑後に逃れた。…
…大久保利通襲撃の首謀者。金沢藩士。…
…だが,この渦中に岩倉使節団が帰国する。そして征韓論に反対する大久保利通,木戸孝允らと西郷派との政治的対立が高じた。征韓論が大久保らによって否定され,征韓派は明治政府から下野した。…
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