中里村(読み)なかざとむら

日本歴史地名大系 「中里村」の解説

中里村
なかざとむら

[現在地名]一関市中里なかさと新町しんまち山目町やまのめまち一―三丁目・蘭梅町らんばいちよう五代町ごだいちよう

磐井いわい川北方に広がる磐井丘陵の東側にあり、東は北上川、南は前堀まえぼり村。南北に奥州街道が通り、東から今泉いまいずみ街道が合流する。古くは中津なかつの里とよばれたと伝える。元和元年(一六一五)五月七日の伊達政宗知行宛行状(陸奥史叢)に「岩井郡中里村」とみえ、五千刈が戦功の賞として小野寺惣九郎に宛行われている。寛永一八年(一六四一)の中里村検地帳(県立図書館蔵)によれば、田方一一九町七反余・代一五五貫二二二文、畑方一〇一町八反余・代三四貫七九九文、名請人数一六二。検地以前には樋口ひぐち村・細谷ほそや村・作瀬さくのせ村・前堀村は当村端郷となっていたが、検地後各々一村として独立したとされる(安永風土記)。このため各村境は錯綜している。正保郷帳では田一五二貫一二六文・畑三五貫一九七文、ほかに新田三七貫九三二文がある。

「安永風土記」では田一九五貫八九八文・畑四六貫六四五文(うち茶畑七七一文)、うち蔵入二三二貫二九三文・給所七貫文・百姓知行三貫二五〇文。人頭四四三、家数四五〇(うち水呑二・借屋五)、男一千一二五・女九七〇、馬二〇七。御穀舟一・大刈子舟二・刈子舟四・小舟一二は作場通用および洪水用心舟に用い、商人荷用の渡世一。御林二、堤六・堰九、代数有之百姓は三一人、産物として麻・紅花、端郷は中里町・根岸ねぎし、小名は大林おおばやし、屋敷名四一をあげる。代数有之百姓のうち熊谷与惣兵衛は細谷・樋口・作瀬三ヵ村の肝入を勤めていた。端郷中里町は山目村と入会で、当村分の町場は西の山目村の町場へ続き、奥州街道の宿駅山目町とよばれた。

中里村
なかざとむら

[現在地名]佐世保市中里町・吉岡町よしおかちよう愛宕町あたごちよう岳野町たけのちよう

皆瀬かいぜ村の南西に位置し、北を相浦あいのうら川が流れる。応仁元年(一四六七)銘の松浦盛の宝篋印塔、宗家松浦氏の菩提寺であった新豊しんぽう寺跡のほか、武辺たけべ城跡・三丸みつまる砦跡などがある。永禄六年(一五六三)飯盛いいもり城の攻防戦では、岳野の一本松いつぽんまつに同城の搦手にあたる施設が置かれていたらしく(大曲記)、また佐世保あるいは山口やまぐち方面に通じる地内の高筈たかはず越が利用されている(印山記)。南東の但馬たじま(標高二九〇メートル)は政治・軍事上の要路であったとされ、江戸時代には平戸往還の間道的役割をもっていたという。村内に同往還の宿駅が置かれ、吉岡に一里塚があり、往還筋に一三塚があった。当村を相神浦中里あいこのうらなかざと村と称するのに対して山口村を相神浦大里あいこのうらおおざと村とよぶ。

中里村
なかさとむら

[現在地名]中里町中里

宮野沢みやのさわ・中里両河川に挟まれた台地上に立地し、北は尾別おつぺつ村、南は深郷田ふこうだ村、東は宮野沢村、西南は宮川みやかわ村に接する。

寛永一七年(一六四〇)一一月二日の津軽百助宛の津軽信義黒印知行宛行状(国立史料館蔵)に村名がある。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に高三六二・五三石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、田方一〇八町四反八畝二七歩、畑方二九町四反三畝一一歩、田畑屋敷合せて一三七町九反二畝八歩、村高九〇九・四二七石とある。検地に先立って提出した貞享元年書上の天和絵図(中里町役場蔵)には、中里村家数八三、うち二五は本村、五は同裏屋、支村として漆新田(現派立)、森合地子新田(中里川北方尾別村境)、五輪村(現五林)があり、合せて五三軒とある。本村は現在のむかい町で、本村の東方高地に二〇間に三〇間の古城があり、その間に二二間に四三間の寺屋敷がある。村境界として「西ハ一本柳切、東ハ一本柳切、南ハ宮野沢古川切、北ハ羽賀五左衛門新堰切」とあって「田地千百四拾七人役御蔵給地抱」とある。

中里村
なかざとむら

[現在地名]二宮町中里・中里二丁目・百合が丘ゆりがおか一丁目

南の吾妻あづま山、東のみね山の支脈が村を囲み、北西から南東に塩海しぼみ(現葛川)が流れ、字中島なかじま打越うちこし川が合流する。東は二宮村、北・西は一色いつしき村、南は山西やまにし村に接する。慶長八年(一六〇三)二月の検地帳(県史六)に「中里之郷」とある。

近世は初め幕府直轄領、寛永一〇年(一六三三)旗本伏見・設楽領の二給、寛文三年(一六六三)小田原藩領と旗本伏見領の二給、元禄一〇年(一六九七)旗本倉橋・伏見領の二給。天保五年(一八三四)村明細帳(県史八)によれば田二九町余、畑屋敷三四町二反余、秣場四ヵ所がある。倉橋知行所分の田三反三畝一一歩は例年旱損地で、逆に塩海川沿いの土地は大雨ごとに水損となった。

中里村
なかさとむら

面積:一二八・二〇平方キロ(境界未定)

中魚沼郡の東に位置する。信濃川と支流清津きよつ川の河岸段丘上に集落がある。南方苗場なえば山中腹にみつの山(日蔭ひかげ山)・がんヶ峰・金城きんじよう山などの標高一五〇〇―一九〇〇メートル級の高峰に囲まれて小松原こまつばらの大段丘がある。これら高山を境に津南つなん町・南魚沼郡湯沢ゆざわ町に接する。東は高津倉たかつくら(一一八一メートル)の稜線で南魚沼郡湯沢町・塩沢しおざわ町、北に続く当間あてま(一〇一六・五メートル)の稜線で十日町市、北はじよう(六三七メートル)の峰で東頸城ひがしくびき松之山まつのやま町、西は津南町と接する。

中里村
なかざとむら

[現在地名]群馬町中里

保渡田ほどた村の北にある。西は東谷ひがしやつ川を境に生原おいばら(現箕郷町)、北は柏木沢かしわぎざわ(現同上)、北から東は足門あしかど村。中央を唐沢からさわ川が南流、東端を三国街道が、西部を伊香保いかほ道がかすめ、南部を東西に板鼻いたはな道も通る。年未詳の上杉氏上州所領目録(彦部文書)に「長野庄之内」として中里村がみえる。元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)に村名がみえる。高一六〇石余、田方八町七反余・畑方九町五反余、高崎藩領。元禄八年(一六九五)より幕府領、同九年武州金沢藩領。同一一年一時幕府領で、同年中に旗本酒井与左衛門と同久松忠次郎の相給地となり、酒井氏が上分で八〇石余、久松氏が下分で八〇石余(元禄一一年・天保六年「村明細帳」彦部文書)。元禄一二年頃には新畑二六町二反で耕地は都合四四町五反となった(寛政八年「村明細帳」同文書)

中里村
なかざとむら

[現在地名]伊万里市二里町にりちよう中里甲・同乙

西は国見くにみ(七七六メートル)の東斜面、東はこし(四八八メートル)の西斜面で、その間を北流する有田川が国見山から流下する内馬場うちのばば川・うしたに川・吉野よしの川・川内こうち川などの小流を合わせる。北部に大里おおざと村がある。慶長絵図に「中里村 大里ノ内」とある。

永徳四年(一三八四)四月二三日付の下松浦住人等一揆契諾状案(松浦山代家文書)に有田吉野若狭介の名がある。有田唐船とうせん城の北一・五キロにあたる村内の吉野城に拠っていた。また吉野神社は蔵王権現ともいい、懐良親王が西下の時、大和の吉野の蔵王権現の分霊をこの地に祭祀したのが始まりで、地名もここから起こったと伝えられる。

江戸時代は佐賀藩領で、安政二年(一八五五)二月の郷村帳には、吉野よしの野副のぞえ飯盛川内いいもりかわち河内かわち炭山すみやま中田なかた北川きたごう飯野いいのうえはる作出つくいで古子ふつこ内野馬場うちのばば赤坂あかさか金嶽かんたけ川向かわむこうが記されている。

中里村
なかざとむら

[現在地名]清瀬市中里一―六丁目・上清戸かみきよと二丁目など

柳瀬やなせ川南岸沿いの沖積地とその南の武蔵野台地に位置する。南は中清戸村・上清戸村、新座にいくら野火止のびどめ(現埼玉県新座市)の出作地に接する。村の南西から空堀からぼり川が北東に流れ、村の西で柳瀬川に合流する。柳瀬川沿いの谷間の沖積地が田となり、用水を柳瀬川から取水。沖積地の南に急な傾斜地が続き、その上に屋敷が散在、さらにその南の台地に畑が広がる。天正一九年(一五九一)徳川家康が武蔵吉正へ「中里村」二一〇石余を宛行い(記録御用所本古文書)、旗本武蔵領として幕末に至る(田園簿・旧高旧領取調帳など)。田園簿では田方一四〇石・畑方七一石。

中里村
なかざとむら

[現在地名]与野市中里

下落合しもおちあい村の南に位置し、東ははり(現浦和市)、西は南流する高沼こうぬま排水路を境として鈴谷すずや村。村の北方には浦和宿に至る道が通り、西方を高沼代用水(東縁)が貫流している。与野領に属した(風土記稿)。寛永二年(一六二五)旗本牧野助兵衛正照が足立郡の内で五〇〇石を宛行われたが(寛政重修諸家譜)、そのなかに当村も含まれていたと考えられる。田園簿によると田五八石余・畑五石余、牧野領。田方は高沼付であったため水損を被りやすく、年貢高は江戸時代前期の年貢割付状(寺尾家文書)によると、最高は天和三年(一六八三)の米七五俵(三斗八升入)、最低は宝永四年(一七〇七)の三八俵とかなりの変動がある。

中里村
なかさとむら

[現在地名]野田市中里

尾崎おざき村の北東に位置する。日光東往還が通り、同往還の宿(中里宿)が置かれていた。北の木間きま(現関宿町)との間には安部あべ沼が広がっていた。地内の真言宗豊山派満蔵まんぞう寺に文保元年(一三一七)銘などの武蔵型板碑がある。天正二年(一五七四)一二月二日の古河公方足利義氏の料所目録(喜連川文書)には庄内河辺のうちとして中里とみえ、野田三郎が知行していた。寛永一〇年(一六三三)の年貢割付状(染谷家文書)に村名がみえ、田一三町六反余、取米は一反につき五斗八升、畠二八町余で、取永は同じく一反につき一四五文、屋敷二町七反余、新田は三町二反余で取米は同二斗六升、新畠四町八反余で、取永は同七五文となっていた。

中里村
なかざとむら

[現在地名]南区中里町・中里一―四丁目・別所中里台べつしよなかざとだい

東は大岡おおか川を境に下大岡しもおおか村、南から西は別所べつしよ村、北は引越ひつこし村・弘明寺ぐみようじ村に接する。大岡川は別所村から当村の東境を下大岡村に達する。鎌倉道は弘明寺村境から別所村境まで。中世は多々久たたく郷のうちにあり、近世以後も延宝元年(一六七三)一一月の最戸村等六ヵ村野高年貢割付状(県史六)では旧多々久郷に属した六ヵ村が一括して扱われている(→弘明寺村。郡内に中里村が二つあるので、現磯子区の中里村は江戸時代、笹下ささげ中里とよんで弁別した。

近世は初め幕府直轄領。元禄四年(一六九一)江戸湯島聖堂領、同一〇年旗本荒川領の二給となる。

中里村
なかざとむら

[現在地名]白子町中里

おどろき村の東に位置し、浜方に納屋集落がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高八五石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では中里組に属し、旗本中川領一〇六石余・森領六石余のほか幕府領二七六石余。元禄郷帳では高三一四石余。元禄一六年(一七〇三)当時高二九六石余が多古藩領(楽只堂年録)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高四八四石余で家数九七、幕府領と多古藩領。天保郷帳では高五五七石余。旧高旧領取調帳では幕府領一二一石余・森領二四石余・福島領一四七石余。元禄一六年一一月の地震では津波により死者二〇六人(うち旅猟師八)・損馬五〇疋で、流家五九軒・流浜納屋六軒と報告されているが(楽只堂年録)、死者二二九人ともいう(鷲山寺供養碑文)

中里村
なかさとむら

[現在地名]岩泉町中里

袰野ほろの村の東に位置。南北に細長く、中央を小本おもと川が流れる。小本街道が通る。永正五年(一五〇八)の糠部郡九箇部他馬焼印図(古今要覧稿)に「中里」とある。戦国初期、甲斐武田氏の一族が流れ来て村の開発に従事したという。中里武田氏の正徳の譜(参考諸家系図)によれば天正一六年(一五八八)秋、九戸政実が「中里山館」を攻め、八ヶ沢に進むところを正徳は「館の出張り小坂の上より、鉄炮にて馬上二騎計り討落」しており、のちに盛岡藩初代藩主南部信直から当地に八八石余の知行地を受け中里氏と称した。寛文四年(一六六四)八戸藩分立のとき中里氏の女仙寿院が八戸藩初代藩主南部直房の母であったことから、仙寿院領として八戸藩領に加えられている(内史略)

中里村
なかざとむら

面積:五一・二四平方キロ

多野郡の中央に位置し、東は万場まんば町、北は甘楽かんら下仁田しもにた町・藤岡市、西は甘楽郡南牧なんもく村と上野うえの村、南は埼玉県秩父ちちぶ小鹿野おがの町と接する。神流かんな川が北流する間物沢まものさわ川や南流する橋倉はしくら川などを合して中央部を東流し、川沿いを県道鬼石―中里線が、また南部の志賀坂しがさか峠越の国道二九九号が通る。平地は神流川流域にわずかにみられるのみで、北部に赤久縄あかぐな(一五二二・三メートル)杖植つえたて(一五二一メートル)、中央部にかのう(一一〇六・三メートル)、南部に諏訪すわ(一二〇七・一メートル)などがそびえる。魚尾よのおが文明一五年(一四八三)銘の鰐口銘文にみえるほか、中世史料での記述はみられない。各村の近世はおおむね幕府領で、山中さんちゆう中山なかやま郷と称され甘楽郡に属した。

中里村
なかざとむら

[現在地名]四日市市朝明あさけ

朝明川の北岸、北山きたやま村の南にあり、西方は小牧こまき村。北山村、対岸の山城やまじよう村とともに中世以来下野しもの(霜野)三郷と称された(櫟木文書)。下野には神宮領の御厨があり、応永九年(一四〇二)の浜名持政寄進状案(氏経卿引付)には「伊勢国朝明郡内霜野御厨或号岩田御園事」とある。岩田いわた御園は「神鳳鈔」に「内宮岩田御薗三石同」とみえる(→岩田御厨(園)。江戸時代は初め桑名藩領、文政六年(一八二三)以降おし(現行田市)藩領。

中里村
なかざとむら

[現在地名]上河内村中里

松田新田まつだしんでん村の南に位置し、中央部を山田やまだ川が南流する。室町時代には興禅こうぜん(現宇都宮市)領の中里郷。応永八年(一四〇一)一一月二一日の日高戸某奉書写(寺社古状)の内容は宇都宮氏の人返し規定とされ、「中さとの郷」百姓らが毎年逃散して宮春辺に居住するようになったため、同地の地頭・名主に逃散百姓の居住を禁じるよう命じている。永正九年(一五一二)三月七日の宇都宮忠綱安堵状(写、同書)で、興禅寺に先例に任せて同郷が寄進され、大永八年(一五二八)二月一七日には仏殿修造のために同郷田面銭七貫五〇〇文と諸公事が免許(「宇都宮興綱書状写」同書)、天文三年(一五三四)八月二六日には造営のために同郷の間夫が五年間免除されている(「宇都宮俊綱夫役免状写」同書)

中里村
なかざとむら

[現在地名]磯子区上中里かみなかざと町・栗木くりき三丁目・氷取沢ひとりざわ町・杉田すぎた八丁目

北は栗木村、東は杉田村、西は栗木村・みね村に接する。東部を南北へ大岡おおか(現笹下川)の上流が流れ、川沿いに金沢かねさわ道が栗木村より赤井あかい(現金沢区)へ通る。同じ久良岐くらき郡内に同名の村があるため、「笹下中里」ともよばれた。年未詳の七月二六日付の道寸(三浦義同)書状(県史三)に「杉田郷之内平山寺領中里村観音堂免事」とある。

文禄元年(一五九二)以降旗本間宮領で、慶長一〇年(一六〇五)一月の間宮信繁への知行宛行状(県史八)には「久良岐郡杉田村之内五百石」とある。同二年の検地帳(横浜開港資料館蔵)には「杉田上郷之内中里村」とあり、名請人一九、田一五町三反、畑六町七反。

中里村
なかざとむら

[現在地名]小田原市中里

酒匂さかわ村の北方に新開された新田村で、南西を酒匂堰が流れる。東は高田たかだ村、西は矢作やはぎ村に接する。西を小田原道・大山道、北を富士道が通り、南を順礼道が飯泉いいずみ勝福しようふく寺へ通じる。

「風土記稿」は、天正年間(一五七三―九二)に名主原氏の祖善左衛門が、次いで慶長年間(一五九六―一六一五)に名主剣持氏の祖三郎左衛門が開発に着手し、元和三年(一六一七)新屋あらや村が成立、寛永一八年(一六四一)の稲葉氏検地の際に一部を中里村として分村、さらに慶安二年(一六四九)に中里村一村に統一されたとする。

中里村
なかざとむら

[現在地名]榛原町坂部さかべ

前玉さいたま村の東、外久保とのくぼ村の北に位置し、高尾たかお川中流域の広い平野部に立地する。現山梨県塩山市の放光ほうこう寺が所蔵する嘉慶二年(一三八八)一二月一〇日に書写された大般若経巻二二〇の奥書に「初倉庄坂口中里」とあり、当地の甕谷寺で書写されている。天正一七年(一五八九)三月六日の石雲院領検地帳写(石雲院文書)によれば、当地内に石雲せきうん院領の田地一反余があった。

文禄二年検地高目録に村名がみえ、高九九四石余。

中里村
なーとうむら

[現在地名]喜界町中里なかざと

わん村の西に位置し、西から北にかけては海に臨む。湾間切のうちで、ナートゥ、ナーツともいう。寛永二一年(一六四四)頃「鬼界島宮里用人」が闕所となっているが(「勘定所日記」旧記雑録)、当地の与人か。正保琉球国絵図に村名の記載はないが、浜方に「はいき崎」が記される。元禄五年(一六九二)の喜界島帳留(列朝制度)に湾間切与人のとして「中里村」とみえる。

中里村
なかざとむら

[現在地名]瓜連町中里

瓜連丘陵の東にあり、北は古徳ことく村・瓜連村。東は平坦な台地をなす。村の東側を南北に南郷なんごう街道、西側を水戸への街道が縦貫する。「新編常陸国誌」に「鹿島社久寿二年神領目録、久慈郡ノ内ニ中里ノ名アリ」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「中里村」とある。「水府志料」によると戸数およそ五八。

村の南西の丘陵五輪ごりんだい山頂に五輪塔がある。那珂西なかさい(現東茨城郡常北町)の真言宗泉山宝幢院宝厳ほうげん寺の二代住職宥尊の墓と伝えられる。宥尊は名僧として知られた。ある年太田おおた(現常陸太田市)城主佐竹氏が鷹狩のとき宝幢院で中食中、寺の飼犬が鷹をとって城主の怒りにふれ、犬は成敗された。

中里村
なかさとむら

[現在地名]一戸町中里

二ッ石ふたっいし川に沿い、東は西法寺さいほうじ村、南は小友おとも村。建武二年(一三三五)九月六日の南部又次郎(師行)宛北畠顕家御教書(盛岡南部文書)に中里村とみえる。横溝孫六重頼は、当村はもと横溝六郎三郎入道(浄円)の所領であったが、没収されて伊達彦五郎(善恵か)に与えられ、同氏が辞退したために重頼に与えられたもので、奉行人がこれを忘れて誤って彦三郎(横溝祐貞)に与えてしまったと訴えた。陸奥国衙では彦三郎の提出した文書には「葛巻村」(現岩手郡葛巻町)、重頼の訴状には「中里村」とみえる村名の食違いを疑問としながらも、重頼の訴えに基づき彦三郎には替地を与えることとし、南部師行に引渡しを命じている。

中里村
なかざとむら

[現在地名]館山市中里

犬石いぬいし村の南東に位置し、ともえ川右岸の河岸段丘に展開する。字諏訪入すわいりに四基のやぐらがあり、大正一四年(一九二五)に中世の五輪塔や宝篋印塔が掘出されている。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高七七石余(うち田一七石余)、同一五年の里見家分限帳によると廿人衆黒川千勝の給知。正保郷帳では高一一三石余(うち田四一石余)で、旗本高木領。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)では幕府領。

中里村
なかざとむら

[現在地名]足利市福居町ふくいちよう問屋町とんやまち福富新町ふくとみしんまち

渡良瀬川南岸の低地に位置し、北は和泉いずみ村。西側は旧渡良瀬川の流路ともいわれ低い。曹洞宗宝福ほうふく寺は承和年間(八三四―八四八)頃の創立と伝えられ、同寺には応永二二年(一四一五)・同三二年銘をもつ足利氏の家臣柳田伊豆守とその夫人のものといわれる石造層塔がある。その南東に近接する中里城は、南北朝期に築城された柳田氏の居城と推測され、単郭状で土塁と周濠を残す。永正八年(一五一一)三月四日の堪順檀那職売券(米良文書)にみえる「中里什泉坊」は当村のものであろうか。

中里村
なかざとむら

[現在地名]小山市中里

巴波うずま川左岸にあり、北の上流はかがみ村。年月日未詳の下野国寒川郷等譲状(金沢文庫古文書)に「なかさとのかう」とある。天文二三年(一五五四)一二月二四日の足利義氏充行状(野田家文書)によれば、当地など二五郷が野田左衛門大夫に宛行われている。喜連川家料所記(喜連川文書)によれば、天正二年(一五七四)一二月一五日当地は野田三郎に下されており、永禄三年(一五六〇)まで古河公方料所であったが、この年小山氏に押領された。

中里村
なかさとむら

[現在地名]太田町中里

川口かわぐち川扇状地にあり、北を窪堰くぼぜき川、南を川口川が西流する。

本堂家系譜(小野寺盛衰記)によれば、天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉が本堂氏に与えた検地目録中に村名があり、田地合計三九八石九斗八升、畑地三三石、合計四三一石九斗八升とある。この村域は藩政期より大きかったと思われる。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に三三三石で、新田とある。絵図の新田村との記載はほかの郡村の例に照らし、誤記と思われる。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)に当高二五八石三斗九升三合とあり、うち本田当高二二四石余、本田並当高二〇石余、新田当高一三石余である。同期の「六郡郡邑記」に「惣名唱也」とあり、支郷は新町村・石畑村・鏡田かがみだ村・西中里にしなかさと村・コボ田村・屋敷やしき村・荒屋敷あらやしき村・マメダ村・谷地村で、家数三七軒とある。

中里村
なかざとむら

[現在地名]古川市十日町とおかまち台町だいまち駅前大通えきまえおおどおり一―二丁目・中里一―三丁目・荒川小金町あらかわこがねちよう・中里・駅南えきみなみ

北は大柿おおがき村、南は境野宮さかいのみや村、東は李埣すもぞね村・蓑口沼みのくちぬま村、西は稲葉いなば村と接する。古くは中里村・大柿村・稲葉村と古川村とを含めて古川と総称されていたようである。分村時期は寛永一七年(一六四〇)の領内総検地後と思われる。正保郷帳に田五八貫七六三文・畑八貫八九文とあり、ほかに同所新田九貫二八三文がある。慶安三年(一六五〇)二代藩主忠宗は大友平左衛門に対し、中里村などで八貫四〇〇文を加増しており、これらの所領は承応元年(一六五二)子供の九十郎に引継がれた(「伊達忠宗領知黒印状」伊達家文書)

中里村
ざとなかざとむら

[現在地名]岩井市中里

菅生すがお沼西方に所在。西に浅間あさま沼のヤトが少し入込む。東部を南北に岩井―野田のだ街道が貫通。古碑に「中座戸」の表記もみられる。村域北西に小墳からなる中里古墳群があったが消滅。字向山むこうやまから正和五年(一三一六)・嘉暦二年(一三二七)・建武四年(一三三七)の板碑が出土。

江戸時代には下総関宿藩領で、「寛文朱印留」に村名がみえる。宝永三年(一七〇六)の村明細帳(長野監治文書)によると村域は東西二一町四〇間・南北二二町二〇間、本高二一七・七五八石、新高二六・四九四石。本田一一町四反八畝、本畑二五町九反六畝七歩、新田畑一二町三反九畝二二歩。

中里村
なかざとむら

[現在地名]北区中里一―三丁目・昭和町しようわまち一―三丁目・上中里かみなかざと二丁目

西ヶ原にしがはら村・上中里村の東にある。中世には平塚ひらつか郷を構成する四ヵ村の一。元弘元年(一三三一)一二月二五日の長井頼秀室しやうゐん譲状(毛利家文書)に「しやうゐん」から嫡子長井貞頼に譲与された所領のうちに「むさしのくにさんさいりやう中さと」がみえる。これはしやうゐんが実家と推定される式部入道(伊賀氏か)から継承した所領であった。当地が属する平塚郷は豊島氏庶家平塚氏の名字の地であることからすると、鎌倉時代に入ってから婚姻関係などによって平塚氏から他氏に伝領された可能性がある。戦国時代の北条氏所領役帳には江戸衆太田康資(新六郎)の所領のうち弟資行(源三郎)に配分していた地の一つとして「中里市谷」二〇貫六一六文、かつて扇谷上杉氏の重臣であった武蔵国松山まつやま(現埼玉県吉見町)城主上田朝直(案独斎)の所領として「平塚之内中里」など四六貫二三九文がみえている。

中里村
なかざとむら

[現在地名]海山町中里

上里かみざと村の西、船津ふなつ川と支流往古おうこ川の合流点にある。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「中里村」と記される。相賀組に属し、寛政五年(一七九三)の大差出帳(同蔵)に家数二〇、人数八八、牛一〇、馬三と記され、二人の医者がいた。曹洞宗竜谷りゆうこく寺は、正徳元年(一七一一)僧智円の開基。ざいうえにある旧村社の中里神社は、江戸時代は二天八王子にてんはちおうじ社といった。

中里村
なかざとむら

[現在地名]美里町中里

松久まつひさ丘陵から北部へ派生した丘陵中に位置し、北から東は甘粕あまがす村、南東は猪俣いのまた村、南は白石しろいし村。大半が丘陵の村で、南東端を天神てんじん川が流下し、白石村との境を鎌倉街道上道が通る。天正一九年(一五九一)の武州之内御縄打取帳(松村家文書)には「甘粕 中里共」と記され、もとは甘粕村とともに一村であったことを示しており、村内に同村の飛地がある。田園簿では田方九五石余・畑方一二二石余、旗本平井領。国立史料館本元禄郷帳と幕末の改革組合取調書においても高・領主は変わらない。「風土記稿」では家数三五。雷電らいでん神社と曹洞宗満正まんしよう寺がある。松久丘陵を構成する比高一五メートルの小丘陵上にある神明しんめい谷戸やと遺跡は、弥生時代中期の環濠集落と古墳時代の周溝墓などからなる。

中里村
なかざとむら

[現在地名]行田市中里

北から東にかけて上池守かみいけもり皿尾さらおの二村、南はおし川を挟んで持田もちだ村と対する。寛元元年(一二四三)六月二三日の将軍家政所下文(光西寺松井家文書)によると、「幡羅郡別府郷内枝本名并中里村」等の地頭職が別符行忠に安堵されている。この中里村は当村をさすとみられている。寛永一〇年(一六三三)忍藩領となり、幕末まで変わらず。同一二年の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高八一二石余。田園簿によると村高は高辻帳に同じ、反別は田方六八町一反余・畑方五町余。城付皿尾組に属し、元禄―宝永期(一六八八―一七一一)は百姓本人四五・水呑九、家内人数三三〇、馬一六、用水は成田なりた(忍領覚帳)

中里村
なかざとむら

[現在地名]喜多方市関柴町せきしばまち豊芦とよあし

東中明ひがしなかみよう村の南東にあり、南は三城目さんじようのめ村、東は熊倉くまぐら村。熊倉組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に中里とみえ、高六八二石余。貞享二年(一六八五)の「熊倉組地下諸事作法改帳」によると、当村は雄国おぐに山麓の小沼おぬま村・高柳たかやなぎ村の山へ入会っていたので、小沼村へは三〇〇文、高柳村へは一〇〇文を年々「一村之償ニ而」支払うことになっていた。「新編会津風土記」によると家数は三七。

中里村
なかざとむら

[現在地名]坂戸市中里

塚崎つかさき村の南東にあり、東は高麗こま川を隔て粟生田あおうだ村。入間いるま入西につさい領に属した(風土記稿)。田園簿では田二一石余・畑四三石余、旗本河村領(三二石余)・同稲生領(三二石余)の相給。化政期には旗本大屋領で(風土記稿)、以後幕末まで続く。明治二年(一八六九)年貢皆済目録(宇津木家文書)では高六七石余。化政期の家数二〇余(風土記稿)。天保一四年(一八四三)には酒造渡世・質物渡世各一名がいた(「農間渡世名前書上帳」加藤家文書)。安政六年(一八五九)に粟生田村との間に村境の地所をめぐる出入があった。その原因は、当村民が高麗川で渡船稼を行い船を突き当てたり、竿で粟生田村地先を欠崩したこととされている(「粟生田村一件願書写」同文書)

中里村
なかさとむら

[現在地名]那智勝浦町中里

八郎はちろう(二五〇メートル)の北東麓、太田おおた川沿いにある。北は大井おおい村。「続風土記」は村名を「奈加座登」と読む。慶長検地高目録によれば村高三二八石余、小物成二斗八升。文政元年(一八一八)の郷帳(「那智勝浦町史」所収)によれば田畑三一町余、家数三四で内訳は本役一二、庄屋・肝煎・歩行合三など、人数二四三(男一二一・女一二二)、牛一七、三、鉄砲四。天保郷帳では村高三七八石余。大田組に属し、和歌山藩新宮領。

元禄一六年(一七〇三)庄屋原見清兵衛は、農耕用の池溝がなく井戸水を汲上げて灌水していた当地に用水を作ることを計画、同年一月二五日着工、宝永五年(一七〇八)三〇余町に及ぶ用水を完成させた。

中里村
なかざとむら

[現在地名]山形市中里・千石せんごく寺西てらにし花岡はなおか千刈せんがり豊風とよかぜこも石こもいし

菰石こもいし村の西に位置し、大岡おおおか山の北麓、高瀬たかせ川・菰石川の河岸段丘上に立地。南西境を菰石川、北境を高瀬川が西流。「寛文朱印留」に山形城下光明こうみよう寺領として村名がみえ、同寺領高一七〇石余。

中里村
なかざとむら

[現在地名]焼津市中里

石脇いしわき村の南に位置し、高草たかくさ山の南、朝比奈あさひな川左岸に立地する。益津ましづ郡に属する。江戸時代の領主の変遷はなか村と同じ。寛文一〇年(一六七〇)の訴状(坂本区有文書)に村名がみえ、当村など八ヵ村は東海道丸子まりこ宿(現静岡市)の助郷を命じられたが、従来どおり岡部おかべ宿(現岡部町)助郷を願出ている。元禄郷帳では高四四八石余。旧高旧領取調帳では高四五〇石余、うち若宮八幡社除地一石・曹洞宗長命ちようめい(現廃寺)除地一石。

中里村
なかざとむら

[現在地名]栗橋町中里

小右衛門こえもん村の南に位置し、権現堂ごんげんどう川沿いに堤防(島中囲堤)がある。正保国絵図・田園簿には中里新田とみえる。天文二三年(一五五四)一二月二四日の足利梅千代王丸印判状(野田文書)に「中里」とみえ、足利義氏が野田左衛門大夫に同所などを安堵している。天正二年(一五七四)野田三郎の知行地としても中里の名がみえ(喜連川家料所記)、いずれも当地に比定しうるが、現千葉県野田市の同名の地の可能性もある。田園簿によれば田高九八石余・畑高二二六石余で、幕府領。元禄郷帳では高一九九石余。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも幕府領。

中里村
なかざとむら

[現在地名]富士市中里

浮島うきしま沼の北西端に位置し、西は東宗高ひがしむねたか村。中世は須津すど庄に含まれていた。天文一四年(一五四五)頃とみられる七月二六日の今川義元禁制(多門坊文書)に「すとなかさと多聞坊」とみえ、地内に多門たもん(現中里八幡宮の旧別当)が存在した。寛永九年(一六三二)幕府領となる。寛永改高附帳に中里村とみえ、田方八九九石余・畑方一九一石余。元禄郷帳では高一千三六八石余。国立史料館本元禄郷帳では旗本曾我領、ほかに東光とうこう(現日蓮宗)領・多門坊領がある。宝永七年(一七一〇)の旗本戸田領郷村高帳では中里村一千一八四石余・同所新畑六六石余・同所新田畑六八石余とみえる。

中里村
なかざとむら

[現在地名]羽黒町中里

北の町屋まちや村、南東の外野との村、南の野荒町のあらまち村の文字どおり中間にあり、西は当村から分郷したともいわれる川行かわつら村。応永元年(一三九四)開村との伝承もあるが、菩提寺は地内になく、村杉番むらすぎばん国見くにみ・町屋・荒川あらかわ・外野諸村に散らばっていたことから、これらの地からの移住の地であったという説もある(笹川土地改良区史)。寛永元年庄内高辻帳では高三〇八石余。

中里村
なかざとむら

[現在地名]北会津村中石なかいし

東はおもい堀を隔てて真渡まわた村、西ははら堀を隔てて石原いしはら村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一〇三石余。寛文五年(一六六五)の「万改帳大沼郡中荒井組」では本田高一〇六石余・新田高二三石余、免八ツ一分六厘余、家数二三・竈二八、男五八・女四五、馬一〇。文化一五年(一八一八)の村日記では高二五〇石余。

中里村
なかざとむら

[現在地名]我孫子市中里・湖北台こほくだい一―五丁目

古戸ふるど村の南西に位置する。天正一八年(一五九〇)小金こがね城主松平氏領で、江戸時代に入ると幕府領になったとされるが未詳。慶安期(一六四八―五二)と推定される高城胤忠旧知行高付帳に村名がみえ、寛文期(一六六一―七三)とされる国絵図でも記載がある。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一七〇石余で旗本井関領。文化三年(一八〇六)には旗本内藤領であるが、天保四年(一八三三)同三枝領との相給となり、同一四年の組合村書上帳(川村家文書)では内藤領一六四石余・家数三三、三枝領五九石余・家数八。

中里村
なかざとむら

[現在地名]妙義町中里

南部を高田たかた川が東流し、東は十二じゆうに村、西は大牛おうし村、南は八木連やぎつれ村、北は碓氷うすい二軒在家にけんざいけ(現松井田町)と接する。近世はおおむね小幡藩領。寛文郷帳では田方一七〇石六斗余・畑方二九石三斗余。文政前後の領内村々書上帳(松浦文書)によると本新田一三町五反四畝余・本新畑一一町八反七畝余、年貢は米六〇石余・永一二貫文余、小物成として真綿三把、家数三五・人数一二一、四季打鉄砲三挺を所持した。

中里村
なかざとむら

[現在地名]高畠町中里

相森あいのもり村の南に位置する小村。大永八年(一五二八)八月一六日の例祭物取収并支払帳写(安久津八幡神社文書)によると、安久津あくつ八幡宮の例祭に際し、「中里在家」は一〇〇文を奉納している。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高二〇六石余、免三ツ九分、家数二(うち肝煎一)・人数六。蒲生氏高目録帳では村柄は下。慶長三年(一五九八)上杉氏(のち米沢藩主)領となるが、寛文四年(一六六四)幕府領、以後は安久津村と同様の変遷をたどる。

中里村
ざとなかざとむら

[現在地名]岩瀬町中里

おお川右岸、富谷とみや山東麓に位置し、東は入野いりの村。天正(一五七三―九二)頃は益子氏の支配下にあったが、同氏の配下加藤氏は当村と笠間氏領の門毛かどげ村との境界争いを発端に笠間方谷中氏と合戦している(関東古戦録)

江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には溜池三、四壁山一〇があり、文化期(一八〇四―一八)の戸数一八・人数八四、馬四。

中里村
なかざとむら

[現在地名]新宿区早稲田鶴巻町わせだつるまきちようなど

牛込中里村の北に位置し、北は関口水道せきぐちすいどう(現文京区)など、西は早稲田村。牛込村のうち牛込宗参そうさん寺領・同行元ぎようげん寺領などを含む地が分れて成立した村と考えられるが、分村の時期は不明。村内のうち、のちに町場となった地は牛込中里町・同中里村なかざとむら町として分離した。北条氏所領役帳では江戸衆の太田新六郎知行のうちに江戸「中栗市谷 同人分 中村二郎右衛門」として二〇貫六一六文の記載がある。

中里村
なかざとむら

[現在地名]湖東町中里

読合堂よみあいどう村・北花沢きたはなざわ村の北に位置する。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に村名がみえ高五八四石余。同九年井伊直継は中里村のうち高四〇石を家臣三居水右衛門に知行させた(三居文書)。文久二年(一八六二)上知。万治二年(一六五九)の検地帳(中里共有文書)によれば、田三七町五反余で高五五六石余、畑二町七反余で高一七石余、屋敷一町余で高一〇石余。元禄四年(一六九一)藪検地が行われ、藪新検帳(同文書)によれば、物成七〇匁余。

中里村
なかざとむら

[現在地名]木更津市中里・中里一―二丁目

長須賀ながすか村の北西に位置する。小櫃おびつ川下流域を村域とし、西は江戸湾に面する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一五三石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によれば家数三五、旗本中山領。嘉永三年(一八五〇)以降の領主の変遷は木更津村に同じ。慶応元年(一八六五)の様子大概並取箇帳によれば高一五三石余、田二一町九反余・畑一五町二反余、家数三九・人数二二七、馬一二。

中里村
なかざとむら

[現在地名]松尾町武野里たけのさと

下武射しもむざ村の北東にある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一二二石。正保二年(一六四五)の成箇郷帳并浮役勘定目録(渡辺家文書)では幕府領の高一二二石余、取米六石余(米納三石余・永一貫二五〇文)、浮役永三〇〇文。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では屋形組に属し、幕府領。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一四三石余、家数三一、三卿の清水領と旗本蜂谷領。

中里村
なかざとむら

[現在地名]高崎市東中里町ひがしなかざとまち

矢中やなか村の東にあり、北は柴崎しばさき村、東は栗崎くりさき村、南は倉賀野くらがの村。群馬郡に属し、慶安年間(一六四八―五二)矢中村から分村したという(郡村誌)。元禄郷帳に村名がみえ高三〇一石余、高崎藩領。同藩領についての明治二年(一八六九)家数人数取調帳(小島文書)によると、天明三年(一七八三)の家数三一・人数一六五。

中里村
なかざとむら

[現在地名]浅川町中里・中根なかね

阿武隈高地の西縁、北流する殿との川流域の狭小な平坦地に開け、西は根岸ねぎし村。天正一八年(一五九〇)正月二一日の佐竹義宣証状(浅川史)に「中里」とみえ、赤坂下総守の本領であった。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高二五五石余。白河古領村郷高帳による高三一八石余。

中里村
なかざとむら

[現在地名]下総町中里

七沢ななさわ村の北東に位置する。寛文四年(一六六四)の松平乗久領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、佐倉藩領であった。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一六八石余で同藩領。享保八年(一七二三)山城淀藩領となり、幕末に至る。享保八年の淀藩領郷村帳では夫役永四九八文余・栗代永一六文・山銭鐚一貫九八三文。

中里村
なかざとむら

[現在地名]唐津市中里

屋形石やかたいし村の南にあり、東松浦半島上場うわば台地の丘陵で囲まれた凹地の村落。周囲の丘陵は低く、水に乏しく、灌漑は神の前かみのまえ大平おおひらなどの溜池に頼っている。

「松浦古事記」に波多三河守の家臣として「中里九内橘覚久、中里村百石」とあり、また「松浦昔鑑」に「中里主膳則ち中里村を知行す。

中里村
なかざとむら

[現在地名]横須賀市うわ町一―四丁目

北は横須賀村、東は深田ふかだ村、西は不入斗いりやまず村、南は佐野さの村に接する。三浦半島東部の内陸に細長く住居が点在する小村で、深田村の飛地が入組んでいる。小田原衆所領役帳に野口彦四郎「廿貫八百六十九文 中里屋敷」とある。「風土記稿」は昔公郷くごう村から分村したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報