多胡碑(読み)タゴノヒ

デジタル大辞泉 「多胡碑」の意味・読み・例文・類語

たご‐の‐ひ【多胡碑】

群馬県高崎市吉井町にある古碑。和銅4年(711)、片岡・緑野・甘良郡から300戸を分けて多胡郡としたことを記したもの。古代三碑、また上野こうずけ三碑の一。→三碑

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精選版 日本国語大辞典 「多胡碑」の意味・読み・例文・類語

たご‐の‐ひ【多胡碑】

  1. 群馬県多野郡(上野国多胡郡)吉井町にある奈良時代の石碑。高さ一二六センチメートル。厚さ六〇センチメートル。高さ二六センチメートルの笠石があり、方柱形の碑身には和銅四年(七一一)片岡・緑野(みとの)・甘良(かんら)の三郡のうちから六郷三〇〇戸をさいて多胡郡を設けたことが六行八〇字で刻まれている。日本三古碑の一つ、および上野(こうずけ)三碑の一つとして知られる。国特別史跡。多胡建郡碑。羊太夫の墓。おひつじさま。

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日本歴史地名大系 「多胡碑」の解説

多胡碑
たごのひ

[現在地名]吉井町池 御門

かぶら川右岸の字御門みかどにある。那須国造碑(現栃木県那須郡湯津上村)多賀城碑(現宮城県多賀城市)とを併せて日本三碑といわれ、また山上やまのうえ碑・金井沢かないざわ(現高崎市)とともに上野三碑と称される。多胡郡建郡の記念碑。現在は覆屋に収める。国指定特別史跡。字名の「みかど」は郡家の所在地と推定されている。永正六年(一五〇九)の宗長「東路の津登」に「上野国多胡郡弁官府碑文銘曰、太政官二品穂積親王、左大臣正二位石上尊、此文系図有、布留社あり」と紹介され、江戸中期の伊藤東涯(蓋簪録・軒小録)が注目。宝暦四年(一七五四)高橋道斎に案内された沢田東江(東江先生書話)と道斎の宣伝や、狩谷掖斎(古京遺文)伴信友(上野国三碑考)らが解説を加えている。以後、今日に至るまで学者・文人・墨客らに注目され、その論考枚挙にいとまない。また拝殿を造り拓本を採ることを禁じ、碑の管理者を配置して保護を加えた領主長崎氏(山吹日記)、所在地を国有地として買上げ保存を図った県令楫取素彦ら、多数の人々によって支えられ保存されてきた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「多胡碑」の意味・わかりやすい解説

多胡碑
たごひ

群馬県高崎市吉井町池に所在する石碑。金井沢碑(かないざわひ)、山上碑(やまのうえひ)と並ぶ上野三碑(こうずけさんぴ)の一つで、日本三古碑の一つにも数えられる。高さ129センチメートル、幅69センチメートル、厚さ62センチメートルの方柱形の碑身に、幅95センチメートル、奥行90センチメートル、厚さ27センチメートルの笠石(かさいし)をのせたもので、漢文体6行80字の碑文中に、和銅(わどう)4年(711)3月に片岡(かたおか)・緑野(みどの)・甘良(から)3郡のうち300戸をもって多胡郡としたことが記されていることから多胡建郡碑ともよばれ、特別史跡に指定されている。近世に狩谷棭斎(かりやえきさい)、伴信友(ばんのぶとも)らによる紹介・研究が行われ、近代では黒板勝美(くろいたかつみ)、尾崎喜左雄(おざききさお)(1904―1978)らによって碑文の解読や考古学的調査が進められた。尾崎は文中の「羊」を新羅(しらぎ)系の渡来人の名とし、石碑はこの人物の建造になるものと考え、また碑の設計には唐尺を用い、碑身高が笠石幅の1.4倍であることから、碑身高を笠石幅のとしたことを推定した。

[久保哲三 2018年5月21日]

 2017年(平成29)、多胡碑を含む「上野三碑」は、ユネスコ国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」に登録された。

[編集部 2018年5月21日]

『尾崎喜左雄著『上野三碑の研究』(1980・尾崎先生著書刊行会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「多胡碑」の意味・わかりやすい解説

多胡碑 (たごひ)

上野(こうずけ)三碑の一つ。711年(和銅4)の上野国多胡郡の新設を記した碑で,群馬県高崎市の旧吉井町池の字御門に所在する。牛臥(うしぶせ)山産出の砂岩を高さ126cm,幅60cmの柱状に切り出して造り,その上に中央を高くした一辺90cmの正方形をした笠石をのせる。碑文は6行80字が楷書体鐫刻(せんこく)されており,《続日本紀》和銅4年3月辛亥(6日)条の〈上野国甘良郡織裳(おりも)・韓級(からしな)・矢田・大家,緑野郡武美,片岡郡山等の六郷をさきて別に多胡郡を置く〉に対応する内容をもつ。つまり既存の3郡から6郷300戸を分割して,新たに多胡郡が設置されたことを弁官の出した官符に拠って記したものである。この碑の存在は連歌師宗長の著した《東路の津登(つと)》(1509)に〈上野国多胡郡弁官府碑〉とあるのが史料上の初見で,江戸時代以降は多くの考証家や研究者の関心を集め,また書道史上でも奈良時代初めの金石文として珍重されて,清の楊守敬《楷法溯源》(1877)により国外へも紹介されている。

 碑文中の〈郡成給羊〉については古くから異説が出され,なかんずく〈羊〉をめぐっては動物説,方角説,略字説があるが,現在では郡司に任命された人物の名とする見解が有力である。碑の所在する旧吉井町は,766年(天平神護2)に新羅人子午足等193人に吉井連の姓が与えられていることから新羅系渡来集団の居住する地であったとみられる。またこの南部の丘陵からは古墳の石材にも使用されている牛臥砂岩が産出し,須恵器窯,瓦窯も多数発見されている。地元には古くから〈羊大夫〉伝説があり,この碑も〈羊さま〉と呼ばれて崇敬をうけている。1945年の敗戦直後には国外への持出しを恐れ,付近の畑に隠し埋める工作もなされた。特別史跡。
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国指定史跡ガイド 「多胡碑」の解説

たごひ【多胡碑】


群馬県高崎市吉井町にある古碑。鏑(かぶら)川の右岸近くの旧稲荷神社の境内にある。政治・軍事に深く関係する遺跡で、8世紀初頭のものとしては稀有なことなどから1921年(大正10)に国の史跡に指定。このあたりは御門(みかど)と呼ばれており、西側には大宮神社があることから、多胡郡庁があったと推定される。この碑は金井沢(かないざわ)碑、山上碑と並ぶ「上野(こうずけ)三碑」の一つであり、日本三古碑の一つにも数えられる。高さ126cm、幅60cmの方柱形の碑身に、幅90cm、高さ27cmの笠石(かさいし)を載せたもので、漢文体の碑文中に、711年(和銅4)3月に片岡(かたおか)・緑野(みどの)・甘良(かんら)(甘楽)の3郡のうち300戸をもって多胡郡としたことが記されていることから「多胡建郡碑」とも呼ばれ、1954年(昭和29)に特別史跡に指定された。上信電鉄吉井駅から徒歩約20分。

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百科事典マイペディア 「多胡碑」の意味・わかりやすい解説

多胡碑【たごのひ】

群馬県吉井町(現・高崎市)にある古碑(特別史跡)。→上野(こうずけ)三碑

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「多胡碑」の意味・わかりやすい解説

多胡碑
たごのひ

上野三碑」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の多胡碑の言及

【吉井[町]】より

…南部を上信越自動車道が走り,吉井インターチェンジがある。鏑川南岸にある711年(和銅4)建立の多胡碑は,上野(こうずけ)碑の一つで国の特別史跡に指定されている。【千葉 立也】。…

※「多胡碑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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