日本大百科全書(ニッポニカ) 「大内弘世」の意味・わかりやすい解説
大内弘世
おおうちひろよ
(?―1380)
南北朝時代の武将。周防(すおう)、長門(ながと)、石見(いわみ)国守護。父は弘幸(ひろゆき)。幼名孫太郎。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)において足利直冬(あしかがただふゆ)方に属した弘世は、対抗していた同族の弘直(ひろなお)を1354年(正平9・文和3)ごろ屈服させ、大内氏一族の統率権を得た。ついで北朝方の長門守護厚東(ことう)氏を追放し、長門を掌握した。63年(正平18・貞治2)のころ弘世は細川頼之(よりゆき)の調停に応じて幕府方に転じ、周防、長門両国の守護職を得た。66年には石見守護に補任(ぶにん)され、71年(建徳2・応安4)には九州探題今川貞世(いまがわさだよ)(了俊(りょうしゅん))を助けて九州の南軍を討ったが、翌年8月の大宰府(だざいふ)攻略後、貞世と意見があわず帰国した。弘世はまた本拠を大内村から山口に移し、京都文化の移入を図るなどして大内氏発展の基礎を築いた。墓所は正寿院(山口市大内御堀、乗福寺)にある。
[外園豊基]