コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

長門国 ながとのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

長門国
ながとのくに

現在の山口県西部。山陽道の一国。中国。『旧事本紀』には穴門国造と阿武国造がおかれたことがみえ,「記紀」には穴戸という名が記されている。『日本書紀』天智天皇4年の条には長門国に城を築いたことが記されている。北九州の筑前国とともに朝鮮半島に近く,かつ瀬戸内海ののどもとを制する軍事,外交上の要地として重視された。そのため養老5 (721) 年には按察使 (あぜち) がおかれ,周防 (すおう) ,石見 (いわみ) の両国をも管轄した。奈良時代から平安時代にかけて鋳銭司がおかれ,国司は鋳銭司をも兼ねた。正倉院に残る天平9 (737) 年の『長門国正税帳』は古代の貴重な史料。国府は現下関市長府にあった。『延喜式』には厚狭 (あつさ) ,豊浦,美禰,大津,阿武の5郡が,『和名抄』には郷 40,田 4603町が記されている。鎌倉幕府はモンゴルの襲来にそなえて北条氏を長門探題とし,強力な権限を与えた。南北朝時代には厚東氏が守護となったが,正平 13=延文3 (1358) 年以降,室町時代を通じて大内氏が守護として支配した。弘治1 (1555) 年以後,毛利氏が支配し,関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ,防長2国を領有して幕末にいたった。明治4 (1871) 年山口県に編入。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル大辞泉の解説

ながと‐の‐くに【長門国】

長門

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

百科事典マイペディアの解説

長門国【ながとのくに】

旧国名。長州とも。山陽道の一国。現在の山口県西半部。古くは穴戸(あなと)国。《延喜式》に中国,5郡。国府は下関市長府。中世後期は大内氏の所領,ついで毛利氏。近世は毛利氏の萩藩とその支藩の長府・清末2藩が置かれた。
→関連項目中国地方山口[県]

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて 情報

藩名・旧国名がわかる事典の解説

ながとのくに【長門国】

現在の山口県西半部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で山陽道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は中国(ちゅうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の下関市におかれていた。平安時代末期に平氏知行国(ちぎょうこく)であったため、源平争乱の最後の壇ノ浦の戦いはこの地となり、平氏は滅亡。文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役(えき)後、鎌倉幕府元(げん)の再襲来に備えて長門探題(たんだい)をおいた。14世紀中ごろから大内氏が領国支配を展開するが、戦国時代以降は毛利氏が領有した。しかし、関ヶ原の戦い毛利輝元(てるもと)が敗れ、中国8ヵ国を領有していた毛利氏は周防(すおう)国、長門国の防長2ヵ国に減封され、居城も広島から萩に移された。以後、防長2ヵ国には長州藩と支藩の徳山藩岩国藩がおかれた。幕末に長州藩は尊王攘夷運動の拠点となった。1871年(明治4)の廃藩置県を経て、長門国と周防国からなる山口県が成立した。◇長州(ちょうしゅう)ともいう。

出典 講談社藩名・旧国名がわかる事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

ながとのくに【長門国】

旧国名。長州。現在の山口県の西半部。東部は周防国に接し,他の三面は海に臨む。
【古代】
 山陽道西端に位置する中国(《延喜式》)。律令制以前,その南西地方の下関海峡付近を穴門国(あなとのくに)と呼び,穴門国造が支配した。長門の国名は665年(天智4)が初見で,そのころから国司が管治する国となった。《和名抄》は〈ナカト〉と訓じ,厚狭(あつさ),豊浦(とよら),美祢(みね),大津,阿武(あむ)の5郡である。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

長門国
ながとのくに

大化改新後に設置された山口県西部の行政区画。この国に大化以前には穴門(あなと)と阿武(あぶ)の二国があったが、穴門は後の豊浦(とよら)、美祢(みね)、厚狭(あつさ)の三郡で、阿武は阿武郡を中心に、大津(おおつ)郡を含む地域といわれている。また、穴門はミナト(水門)の意で、関門海峡をさしたものである。大化改新から律令(りつりょう)制が始まるが、『日本書紀』によれば、650年(白雉1)に「穴門の国司が白雉を献上する」という記事がみえる。さらに同書665年(天智天皇4)に「城を長門国に築かしむ」とあり、これが長門国の初見である。この長門城の場所についてはいろいろ説があるが、遺物などから確認されたものはない。『延喜式(えんぎしき)』では長門国は中国とされ、国内に厚狭、豊浦、美祢、大津、阿武の五郡があるとの記載がある。しかし、『続日本紀(しょくにほんぎ)』など他の文献では、長門国は上国となっている。同書730年(天平2)に、「周防(すおう)国熊毛郡牛島や吉敷(よしき)郡達理(たつり)山から産出する銅を長門鋳銭司(ちゅうせんし)の原料とした」とある。長門鋳銭司の跡地は、現下関(しものせき)市長府(ちょうふ)町覚苑寺の境内とみられている。長門国は本州西端の交通上の要地であり、九州へ渡海するため臨門駅があり、軍団も置かれていた。
 平安時代の末期、長門国は平家の知行(ちぎょう)国であった。このため、源平争乱の最後の戦いは壇之浦(だんのうら)(下関市)で行われ、ここで平氏は滅亡する。源頼朝(よりとも)は長門国を重視し、長門守護に佐々木高綱を任じた。その後鎌倉幕府は蒙古(もうこ)襲来に備え長門探題を置いたが、この職は北条氏が世襲した。北条氏滅亡後、一時宇部地方の豪族厚東(ことう)氏がこの職についた。しかし、1355年(正平10・文和4)山口の豪族大内弘世(ひろよ)がこの国に侵入し、厚東氏を破って一円を平定した。弘世はこの功により長門の守護となった。1551年(天文20)大内氏は家臣陶(すえ)氏に滅ぼされ、陶氏もほどなく毛利(もうり)氏に敗れた。
 関ヶ原の戦いの結果、毛利輝元は中国8か国の大名から防長2国に減封され、萩(はぎ)に城を築いて入国した。やがて毛利秀元に豊浦郡のうち4万7000石を分与した。秀元の孫綱元は1653年(承応2)領内1万石を秀元の次男元知(もととも)に再分与した。輝元は1610年(慶長15)防長両国の検地を実施するが、長門国の総石高(こくだか)は24万3246石余であった。本藩領には、奥阿武、当島(とうじま)、浜崎、美祢、船木(ふなき)、吉田、前大津(まえおおつ)、先大津の八宰判(さいばん)を置いたが、宰判とは代官の管轄区域である。
 1871年(明治4)廃藩置県により、国内に山口、豊浦、清末(きよすえ)の三県が成立したが、同年末には防長両国が山口県に統一された。1889年(明治22)市町村制実施により、赤間関(あかまがせき)(のち下関市)に市制、萩に町制、93村に村制が敷かれた。96年郡制が実施され、阿武、美祢、厚狭(あさ)、大津、豊浦(とようら)の五郡に、それぞれ郡役所と郡会が設置された。この郡制は1926年(大正15)に廃止された。この間、郡は県と市町村の中間行政機構としての機能を果たした。1955年(昭和30)、現在のような六市15町四村となった。[広田暢久]
『長州藩編『防長風土注進案』全395巻・刊本22冊(1842~46成/1960~66・山口県文書館)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

長門国の関連キーワード治承・寿永の内乱若狭国守護職次第長門鋳銭所跡額田部広麻呂蔵重 久兵衛広沢 金次郎紀藤 閑之介木梨 精一郎周布 公平長門警固番山根 武亮山口[県]滝口 吉良豊永 長吉新山 荘輔萩原 守一藤井 啓一岡 市之助李家 隆介黒川 勇熊

今日のキーワード

偽計業務妨害罪

虚偽の風説を流布し,または偽計を用いて人の業務を妨害する罪 (刑法 233) 。流布とは,犯人自身が公然と文書,口頭で伝達するほか,口伝えに噂として流す行為も含む。偽計とは人を欺罔,誘惑し,あるいは人...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android