長門国は、古くは「穴門」「穴戸」と書き、「あなと・あながと・ながと」と読んだ。穴はくぼみ、門は瀬戸の意で、ミナト(水の狭くなっている所)のトと同義である。すなわち穴戸は
「日本書紀」垂仁天皇二年の条に、意富加羅国の王子都怒我阿羅斯等が「穴門」に着いたとき、伊都都比古という者が自分が国王であるといってだましたという話がある。「穴門」が記録にみえる初めである。もっとも「大日本地名辞書」は、長門には伊都都比古に擬すべき有力な豪族のいた証がないとして、穴門を筑紫の那津にあて、伊都都比古を「古事記」の
長門国は、都からみれば本州西端の辺境にあたるが、文化の先進地アジア大陸から渡来すれば、最初に到着する地である。
「国造本紀」によると、景行天皇のとき桜井田部連の同祖邇伎都美命の四世の孫、速都鳥命が穴門国造に、神魂命の一〇世の孫、味波波命が阿武国造に任命されたとある。阿武国造は「阿牟君」と通称され、「日本書紀」では、景行天皇とその妃日向髪長大田根との間に生れた日向襲津彦皇子を阿牟君の始祖としているが、いずれにしても大化以前に穴門・
大化改新によって旧来の国造は廃止され、律令体制に移行する。「日本書紀」白雉元年(六五〇)二月九日の条に「穴戸国司草壁連醜経、白雉献りて曰さく、国造首が同族贄、正月九日に麻山にして獲たりとまうす」とある。この瑞祥によって年号を白雉と改められたのであるが、この「穴門」は国造時代の穴門・阿武両国を併せ、国司の治下として設けられた新しい穴門国である。「長門」の字は同書天智天皇四年八月の条に「達率答春初を遣して、城を長門国に築かしむ」とあるのを初見とし、これ以後はすべて「長門」と書かれているので、この間に「穴門」から「長門」の字に改められたと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
旧国名。長州。現在の山口県の西半部。東部は周防国に接し,他の三面は海に臨む。
山陽道西端に位置する中国(《延喜式》)。律令制以前,その南西地方の下関海峡付近を穴門国(あなとのくに)と呼び,穴門国造が支配した。長門の国名は665年(天智4)が初見で,そのころから国司が管治する国となった。《和名抄》は〈ナカト〉と訓じ,厚狭(あつさ),豊浦(とよら),美祢(みね),大津,阿武(あむ)の5郡である。国庁は豊浦郡内,現在の下関市長府の地に設定され,平安京までの日程は上り21日,下り11日とある。736年(天平8)度の正税は穀10万9730石余,穎14万5729束余,《和名抄》の記す田積は4603町余。百済の役(663)後,《日本書紀》天智4年(665),天智9年の記事によれば,長門城が築かれた。その所在地は四王司山,火の山などに比定されるが不詳。内海沿いに山陽道の大路が長門では阿潭(あたみ),厚狭,埴生(はぶ),宅賀(たくが)の各駅を結んで臨門駅(現,下関市長府)に達する。駅館は外国使節の往来にそなえて瓦葺き,白壁造と定めた。一方,石見の伊甘(いかむ)駅(現,島根県浜田市)で終わる山陰道と山陽道を連絡する小路が,石見から小川(現,萩市の小川地区付近),宅佐(たかさ),阿武,埴田,参美(さんみ),三隅,由宇,意福(おふく),鹿野,阿津の駅を経て厚狭駅(現,山陽小野田市付近)に合流した。鋳銭司(所)が国庁の西方(下関市長府町下安養寺)に設置され,〈和同開珎〉と〈富寿神宝〉が鋳造された。長門国は当時主要な銅産出国の一つで,採長門国銅使を任命したことがある。ほかに陶器,海藻などを貢納した。国分二寺は国庁の北西部に営まれたらしい。一宮は住吉神社,二宮は忌宮(いみのみや)神社で,いずれも神功皇后ゆかりの社伝をもつ。穴門国造の後裔は豊浦郡領の額田部直氏となった。
執筆者:八木 充
長門では平安時代後期ころから行政組織に変化が起こり,厚狭郡が厚東(ことう),厚狭,吉田の3郡に,豊浦郡が豊東,豊田,豊西の3郡に分かれた。また郷もたとえば豊西郡のなかに黒井郷,正吉郷,吉見郷などの古代には存在しない郷が現れ,大井荘,三隅(みすみ)荘,日置(へき)荘,向津奥(むかつく)荘,津布田(つぶた)荘など中央権門の荘園や,一宮荘のような長門の寺社領荘園も出現した。これらの変化は生産力の向上,人口増加,村落構造の変化などを背景として起こったものと考えられている。平安末期に長門国は平知盛の知行国となり,そのためいわゆる源平の争乱では平氏の最後の拠点となった。
平氏が長門壇ノ浦の戦で滅ぶと,源頼朝は土肥実平を長門国の惣追捕使に任じ,その後佐々木高綱が長門守護となった。また国内の平家没官領には頼朝が補任した地頭が置かれた。だが国衙の行政的支配は継続しており,鎌倉幕府の権限は軍事を中心に重大刑事事件についての警察権,裁判権,鎌倉御家人に対する裁判権などに限られていた。しかし文永の役(1274)をきっかけに,幕府は鎌倉御家人以外の武士への軍事指揮権や,御家人の所領以外の地への課役賦課権なども獲得し,全国への支配をつよめた。長門国では1276年(建治2)に北条時宗の弟宗頼が守護として下向,同時に周防守護を兼ね,さらに安芸,備後への軍事指揮権をも与えられた。これは博多と同様に,蒙古軍の来襲が予想される長門北岸警備のための処置で,同年8月には山陽・南海両道の軍勢が長門警備に当てられた。長門北岸の要所には石築地(いしついじ)(いわゆる元寇防塁)が築かれ,この任務は山陰道へも賦課された。このような権限集中により,これ以後の長門・周防守護は長門周防探題,長門探題とも呼ばれ,北条一門が任命されるポストになった。最後の長門探題北条時直は幕府滅亡後九州で降参した。
建武政権は〈輔大納言〉を守護に任命したと《長門国守護職次第》《長門国守護代記》は伝えるが,帥(そち)大納言の誤記なら二条師基ということになる。しかし事績は不明。まもなく長門探題攻略に功のあった厚東武実が守護となった。厚東氏は物部姓で厚東郡司を世襲する家で,系図によれば平安末期には長門国押領使を務めたと伝える土着勢力である。武実は足利尊氏が挙兵すると尊氏の下に参じ,武家方守護となった。なお尊氏は九州に落ちるに際し,斯波氏を長門国の大将に任じたと《梅松論》は伝えている。
尊氏のもとで守護とともに軍事指揮権,感状(かんじよう)発給権をもつ大将の任命は九州でも見えるが,長門では事績は不明である。厚東氏は,以後足利直冬の長門探題就任による一時的中断はあるものの,武村,武直,義武と武家方守護を世襲した。
1355年(正平10・文和4)ころから周防の宮方(南朝)守護大内弘世が長門攻略を開始する。この時期九州で宮方が優勢となり,境を接する長門が弱体化するとみてのことらしく,57年(正平12・延文2)末には長門をほぼ制圧し,翌年1月厚東義武は九州豊前へ逃亡した。厚東氏は59年長門へ上陸したが敗れてまた九州へもどった。しかし大内弘世が長門・周防守護補任を条件に63年(正平18・貞治2)武家方にかわると,義武は宮方に降参,菊池氏と協力して大内氏に対抗し,64年長門守護として長門へもどった。しかし弘世の勢力は強く,義武は長門の一部を把握できたにすぎず,69年(正平24・応安2)末ころには長門から追われた。弘世・義弘父子が九州へ出兵した理由は,おそらく厚東氏のこうした長門攻略をおさえることにあったと思われる。義弘は後に厚東氏の反攻基地豊前の守護に任じられている。大内氏は長門国に守護代をおいて統治責任者としたが,守護代は原則的に現地におらず,大内氏の本拠周防の山口で最高首脳会議〈評定〉のメンバーとして行政・立法にたずさわり,長門には守護代が任命する小守護代が常勤していた。小守護代は鎌倉期守護の居所長府と同じであったと思われる。なお守護代は1421年(応永28)内藤盛貞が任命されて以来,一時中断はあるが内藤氏が世襲的に任命され,小守護代には南野氏,永富氏,勝間田氏などの内藤被官が任命された。
戦国期に入ると大内氏の支配は強化され,寺社領から〈指出〉を徴収して水田面積と領主得分を把握し,諸役賦課量を増大させた。ただし賦課基準は水田であり,この点では平安期からのそれとかわりなかった。1557年(弘治3)に大内義長を長府で自殺させて防長を握った毛利元就・隆元父子は,前守護代内藤隆世の弟隆春を守護代としたが,長門国支配には周防守護代市川経好も関与させた。毛利氏は大内氏以上に在地把握を強化し,畠,屋敷をも把握する方向を示した。一方農民は戦乱に乗じて反毛利勢力と結んで一揆を起こし,長門でも一揆の基盤といわれる村落の惣(そう)結合がみられ,領主の収奪強化に抵抗する動きがみられる。朝鮮侵略を意図する豊臣秀吉の軍備強化の一環としてはじまった毛利氏の惣国検地は,87年(天正15)に長門ではじまるが,この検地では,領主が寺社か武士かといった関係なしに,年貢納入の責任を負っている耕地の面積,年貢高,屋敷数についての〈指出〉を百姓から徴収し,それよりさらに高い年貢高(石高)にし,寺社領も大幅に削減されたり,没収されたりした。また長門の武士が大幅に他国へ移され,かわりに他国の武士が長門へ入り,中世長門の体制はくずれた。
執筆者:木村 忠夫
1600年(慶長5)関ヶ原の戦に敗れた毛利氏は,旧領8ヵ国のうち6ヵ国を没収され,周防・長門両国に減封された。これにともなって毛利氏は,本拠広島城を福島正則に引き渡し,萩に城を築き,城下町を建設した。10年の検地帳によると,長門国は総石高24万3246石余,田1万5640町余,畠5252町余,百姓屋敷2万0556軒,市屋敷1235軒,町屋敷2035軒,浦屋敷1728軒であった。毛利輝元は1600年に毛利秀元へ長門国豊浦郡で高3万6000余石を分知し,長府藩をたてさせた。53年(承応2)長府藩主綱元は秀元の子元知へ豊浦郡のうち14ヵ村,高1万石を与え,清末藩を興させた。長州藩は郷村支配の行政単位として宰判を設け,長門国では奥阿武,当島,浜崎,美祢,船木,吉田,前大津,先大津の8宰判を置いた。
長門国の北浦では漁業が盛んであったが,中でも鯨漁は漁村に大きな活力を与えた。北浦の鯨漁は中世から行われていたが,72年(寛文12)以後長州藩が鯨組の保護と奨励を行ったため,活況となった。瀬戸崎・通(かよい)(長門市),黄波戸(きわど)(日置町),立石・川尻(油谷町)の各浦で鯨組が漁獲を競った。防長四白(米,紙,塩,蠟)の一つ櫨蠟(はぜろう)は長門国の重要な産物であった。1703年(元禄16)以後長州藩は櫨実の他国売りを禁止するとともに,領内の蠟屋で蠟燭(ろうそく)を製造させ,それを大坂で売って藩の財源とした。59年(宝暦9)藩は櫨蠟を城下町萩の豪商2軒の一手扱いとし,晒蠟の製造と領内の販売を独占させ,専売制を強化した。1751年医者永富独嘯庵は長府領内で製糖業をはじめた。これは藩の育成によって,5年後に大坂商人と白糖を年額1万斤,向こう10ヵ年間輸送する契約を結ぶほどになった。原料の黍栽培が長府領のみでなく本藩領,小倉藩領にまで拡大し,製糖業は順調に発展していたが,幕府から密貿易の疑いをかけられ,挫折した。この白糖製造技術は吹上衆によって幕府にもたらされ,幕府の手を経ながら伝播し,やがて展開する日本の製糖業の基礎となった。
執筆者:小川 国治
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大化改新後に設置された山口県西部の行政区画。この国に大化以前には穴門(あなと)と阿武(あぶ)の二国があったが、穴門は後の豊浦(とよら)、美祢(みね)、厚狭(あつさ)の三郡で、阿武は阿武郡を中心に、大津(おおつ)郡を含む地域といわれている。また、穴門はミナト(水門)の意で、関門海峡をさしたものである。大化改新から律令(りつりょう)制が始まるが、『日本書紀』によれば、650年(白雉1)に「穴門の国司が白雉を献上する」という記事がみえる。さらに同書665年(天智天皇4)に「城を長門国に築かしむ」とあり、これが長門国の初見である。この長門城の場所についてはいろいろ説があるが、遺物などから確認されたものはない。『延喜式(えんぎしき)』では長門国は中国とされ、国内に厚狭、豊浦、美祢、大津、阿武の五郡があるとの記載がある。しかし、『続日本紀(しょくにほんぎ)』など他の文献では、長門国は上国となっている。同書730年(天平2)に、「周防(すおう)国熊毛郡牛島や吉敷(よしき)郡達理(たつり)山から産出する銅を長門鋳銭司(ちゅうせんし)の原料とした」とある。長門鋳銭司の跡地は、現下関(しものせき)市長府(ちょうふ)町覚苑寺の境内とみられている。長門国は本州西端の交通上の要地であり、九州へ渡海するため臨門駅があり、軍団も置かれていた。
平安時代の末期、長門国は平家の知行(ちぎょう)国であった。このため、源平争乱の最後の戦いは壇之浦(だんのうら)(下関市)で行われ、ここで平氏は滅亡する。源頼朝(よりとも)は長門国を重視し、長門守護に佐々木高綱を任じた。その後鎌倉幕府は蒙古(もうこ)襲来に備え長門探題を置いたが、この職は北条氏が世襲した。北条氏滅亡後、一時宇部地方の豪族厚東(ことう)氏がこの職についた。しかし、1355年(正平10・文和4)山口の豪族大内弘世(ひろよ)がこの国に侵入し、厚東氏を破って一円を平定した。弘世はこの功により長門の守護となった。1551年(天文20)大内氏は家臣陶(すえ)氏に滅ぼされ、陶氏もほどなく毛利(もうり)氏に敗れた。
関ヶ原の戦いの結果、毛利輝元は中国8か国の大名から防長2国に減封され、萩(はぎ)に城を築いて入国した。やがて毛利秀元に豊浦郡のうち4万7000石を分与した。秀元の孫綱元は1653年(承応2)領内1万石を秀元の次男元知(もととも)に再分与した。輝元は1610年(慶長15)防長両国の検地を実施するが、長門国の総石高(こくだか)は24万3246石余であった。本藩領には、奥阿武、当島(とうじま)、浜崎、美祢、船木(ふなき)、吉田、前大津(まえおおつ)、先大津の八宰判(さいばん)を置いたが、宰判とは代官の管轄区域である。
1871年(明治4)廃藩置県により、国内に山口、豊浦、清末(きよすえ)の三県が成立したが、同年末には防長両国が山口県に統一された。1889年(明治22)市町村制実施により、赤間関(あかまがせき)(のち下関市)に市制、萩に町制、93村に村制が敷かれた。96年郡制が実施され、阿武、美祢、厚狭(あさ)、大津、豊浦(とようら)の五郡に、それぞれ郡役所と郡会が設置された。この郡制は1926年(大正15)に廃止された。この間、郡は県と市町村の中間行政機構としての機能を果たした。1955年(昭和30)、現在のような六市15町四村となった。
[広田暢久]
『長州藩編『防長風土注進案』全395巻・刊本22冊(1842~46成/1960~66・山口県文書館)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
山陽道の国。現在の山口県北西部。「延喜式」の等級は中国。「和名抄」では厚狭(あつさ)・豊浦(とよら)・美禰(みね)・大津・阿武(あむ)・見島の6郡からなる。国府・国分寺は豊浦郡(現,下関市)におかれた。一宮は住吉神社(現,下関市)。「和名抄」(名古屋市博本)所載田数は4769町余。「延喜式」には調庸として綿・鰒(あわび)などを定める。関門海峡付近を古く穴門(あなと)と称し,穴門国造や天智朝の穴門国司の存在が伝えられる。長登(ながのぼり)銅山などで銅鉱を産出し,奈良時代に鋳銭司(じゅせんし)がおかれた。長門国司は818年(弘仁9)鋳銭使に変更されたが,825年(天長2)鋳銭司は周防国へ移り,国司制に復した。鎌倉初期には佐々木氏,後期には北条氏一門が守護職をつとめた。南北朝期に周防国で台頭した大内氏がやがて長門国の守護も兼ね,陶晴賢(すえはるかた)の謀反で大内氏が滅ぶと,安芸国の毛利元就(もとなり)が長門国をも支配下に組みいれた。関ケ原の戦で西軍についた毛利氏は,戦後周防国と長門国のみを領することとなり,萩を城下とした。1864年(元治元)藩庁を山口に移す。71年(明治4)の廃藩置県の後,山口県となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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