日本の南北朝時代に並立した両朝のうち,持明院統の系譜をひき,足利氏に擁立されて京都に存在した朝廷。吉野にあった大覚寺統の朝廷に対し,北方にあったので北朝とよばれ,光明,崇光,後光厳,後円融,後小松の5代の天皇が皇位についた。鎌倉後期に天皇家は持明院・大覚寺両統に分裂,皇位継承や皇室領荘園をめぐる抗争が続いたが,大覚寺統の後醍醐天皇が親政を実現し,活発な政治活動をおこなって鎌倉幕府と対立し,元弘の乱によって京都を追われたため,以前から幕府に接近していた持明院統の量仁親王が幕府に擁立されて光厳天皇となり,両朝並立の端緒が開かれた。その後,後醍醐天皇の復帰,鎌倉幕府の滅亡によって光厳天皇は退位したが,やがて足利尊氏と後醍醐天皇との間が決裂して建武政府が分解すると,1336年(延元1・建武3)尊氏は光厳上皇の弟豊仁親王を擁立して皇位につけ(光明天皇),一方,後醍醐天皇は神器を携えて吉野に逃れ,持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)の対立は決定的となった。以後半世紀以上にわたって南北両朝が並立し,全国各地で抗争が展開された(南北朝内乱)。
北朝を擁立した足利氏は,はじめのうち尊氏・直義兄弟の対立など内部に対立の種を抱えており,尊氏あるいは直義が戦略上南朝と結ぶこともあった。ことに51年(正平6・観応2)尊氏は鎌倉に下向した直義とその養子直冬を討つために南朝と和睦し,南朝の要求に従って崇光天皇と皇太子直仁親王を廃し,南朝方が京都を奪還した(正平一統)。しかし和議はわずか5ヵ月たらずで破れ,翌年閏2月には光厳上皇の皇子弥仁親王が践祚して(後光厳天皇),北朝が再建された。この北朝再建は,幕府存続の大義名分を得るために足利義詮によって強行されたもので,北朝が足利氏の傀儡(かいらい)的存在であったことを示している。その後も北朝=室町幕府勢力と南朝勢力とは,畿内や九州などを舞台に抗争を続けたが,南朝方はしだいに劣勢となり,関東で足利基氏が,九州で今川了俊がそれぞれ反対勢力を制圧して室町幕府の全国支配体制が整うに至って,内乱の帰趨は決定的となった。室町幕府2代将軍義詮のころから南北両朝合一の交渉が幾度か試みられたが,3代将軍義満の代になると,全国統一の完成をめざす幕府の側から積極的に交渉が進められ,92年(元中9・明徳3)南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に神器が渡されて南北両朝の合一が実現した。このとき,合一の条件として,皇位は南北両朝すなわち大覚寺・持明院両統が交互に継承することが定められたが,この条件は履行されず,1411年(応永18)に後小松天皇の皇子実仁親王が皇太子となり,翌年譲位されて践祚(称光天皇)したため,これを不満とする南朝=大覚寺統支持勢力の蜂起が各地で続いた。しかしこれもやがて鎮圧され,皇位は北朝系=持明院統にのみ継承されて現在に至っている。
執筆者:新田 英治
中国,北魏から隋に至る華北諸王朝の総称。439年(太延5)北魏は北涼を滅ぼして華北を平定し,五胡十六国の分立状態に終止符を打ったが,江南でも420年(永初1)の晋・宋革命を契機に漢族政権の江南土着化が深まった(南朝)。かくして中国は南北の対立を基調とする時代に入った。これは中国再統一の第一歩を示すもので,北魏孝文帝の時代に南北の緊張が高まるが,やがて北魏は東西両魏に分裂し,ついでそれぞれ北斉・北周に引きつがれる。北周は北斉を併呑して華北再統一に成功し,これをうけた隋が589年(開皇9)南朝陳を滅ぼして中国全土を平定,南北朝の対立は解消された。北朝社会の特色は胡族的要素の濃厚な武力支配にあり,後世の史家は漢人貴族文化の興隆した南朝を正統とする傾向が強い。しかし北朝諸政権が胡・漢の両社会を統合し,かつて古代王朝の栄えた華北社会の秩序再建につとめた功績は大きく,その努力は唐朝の律令体制や胡・漢両世界を包摂する世界帝国体制に結実した。唐の李延寿の《北史》は,北朝史を紀伝体で著したものである。
→魏晋南北朝時代
執筆者:谷川 道雄
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南北朝時代、京にあった持明院統(じみょういんとう)の朝廷。大和国吉野などに拠った大覚寺統(だいかくじとう)の南朝に対していう。建武政権が崩壊した1336年(建武3・延元1)、光厳上皇(こうごんじょうこう)の院宣を奉じて入京した足利尊氏に逐われた後醍醐天皇が京を脱出したのち、光厳院政のもとで光明天皇(こうみょうてんのう)が践祚(せんそ)して成立し、以後、崇光(すこう)・後光厳・後円融(ごえんゆう)・後小松(ごこまつ)の各天皇が皇位を継いだ。鎌倉末期に皇位に即きながら後醍醐天皇の復位によって廃位された光厳天皇を初代として算入し、後小松まで6代を数えることがある。北朝は、南北朝時代をほぼ一貫して京にあって公事(くじ)の再興を担ったが、当時南朝方に与する勢力を宮方とよんだのに対して北朝方を武家方とよぶことがあったように、武家(足利氏)に支えられて存立し、この間に公家と武家の緊密な連携体制が構築される。1392年(明徳3・元中9)に「三種の神器」が南朝後亀山天皇(ごかめやまてんのう)から北朝後小松天皇へ渡されて両朝の合一が成り、爾後皇位は持明院統に継承されて当代にまで連なる。ただし、明治天皇の勅裁により南朝が正統とされてのち、現在では後小松を除き歴代数に算入されていない。
[新田一郎]
『田中義成著『南北朝時代史』(1979・講談社学術文庫)』
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南北朝期の二つの朝廷のうち,京都の持明院統の朝廷。1336年(建武3・延元元)九州から入京した足利尊氏が光厳(こうごん)上皇の弟を擁立して光明天皇とし,後醍醐天皇が吉野にのがれたのに始まる。51年(観応2・正平6)尊氏と南朝との和睦で途絶えたが,翌年,光厳上皇の子が後光厳天皇として即位し再建。両朝の合一後もこの皇統,朝廷が存続した。光厳上皇と,光明・崇光(すこう)・後光厳・後円融・後小松の5天皇。年号は建武・暦応・康永・貞和・観応・文和・延文・康安・貞治・応安・永和・康暦・永徳・至徳・嘉慶・康応・明徳。京都に位置したため,制度などは従来のものを継承し,実態を記す公家の日記なども多く残る。
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