木次町(読み)きすきちよう

日本歴史地名大系 「木次町」の解説

木次町
きすきちよう

面積:六四・〇七平方キロ

大原郡の南西部に位置し、町域の大部分が斐伊川中流右岸に沿う。北は加茂かも町、東は大東だいとう町と仁多にた仁多町、西は飯石いいし三刀屋みとや町と吉田よしだ村、南は吉田村と仁多町に接し、雲南三郡の接点。町内各地に考古遺跡が点在する。平成三年(一九九一)発掘調査を行った斐伊中山ひいなかやま古墳群から細線式鳥文鏡が出土。この古墳群は加茂町の神原神社かんばらじんじや古墳、三刀屋町松本まつもと古墳とともに斐伊川中流の前期古墳として貴重である。また寺領じりよう平が廻ひらがさこ横穴墓より金銅装刀子が出土している。「出雲国風土記」によると、大原郡斐伊郷には郡家があり、さらに新造院と新造院尼寺があった。

木次町
きすきまち

[現在地名]木次町木次

木次村のうちに形成された町場。北流する斐伊川と北西流する久野くの川の合流点付近に位置し、「郡村誌」に「木次村の西南に木次町あり」とみえる。近世以前は来次と記し、市庭として起こっている。永禄一二年(一五六九)と推定される閏五月四日の来次市庭中書状(坪内文書)によれば、「来次市庭中」の組織があり、石田彦兵衛らに商売のための出入りを認めている。来次商人は奥出雲で生産された鉄などを斐伊川の舟運により、杵築市場(現大社町)に輸送していた。「雲陽誌」に町場の状況が「長さ六町余あり、八日市三日市といふ、毎月市を立、商買する者近里遠村より群集す、四月馬駒犢牛の類争てもつて交易す、往来蟻然たり」と記され、現在も通称として八日市ようかいち三日市みつかいちしん町が残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報