大山道(読み)だいせんみち

日本歴史地名大系 「大山道」の解説

大山道
だいせんみち

大山を中心に四方に延びる、大山参詣のために開かれた道。大山は九世紀以後山岳仏教の霊地とされた。当初修験者のたどる道が形成され、やがて牛馬守護・水源保護の農業信仰の広まりによって大山を訪れる者がしだいに増加。近世以後因伯二国をはじめ美作・備前・備中など中国各地で大山講が組織され、奥参ともよばれる大山参の風習が民間に広まった。また大山博労ばくろう座での牛馬市への道としても利用された。享保一一年(一七二六)の「因伯地理志」には大山坊中へ至る道として、日野郡溝口みぞくち宿(現溝口町)会見あいみ尾高おだか(現米子市)汗入あせり淀江よどえ(現淀江町)八橋やばせ羽田井はたい(現中山町)、美作国真庭まにわ延助のぶすけ宿(現岡山県川上村)のそれぞれからの五筋を記している。この五道筋が主要な大山への道筋で、それぞれ溝口道・尾高道・坊領ぼうりよう道・川床かわとこ道・横手よこて道とよばれた。これらの道筋はその後に多くの枝道ができ、また改修されたりして近代に及んだが、現在草深い山間の古道をすべて跡づけることはほとんど困難になっている。

〔川床道〕

大山境内の東方約二キロ、阿弥陀あみだ川上流の川床(現大山町)を経て大山に参る道。川床では二本の道が合流する。一本は久米くめ湯関ゆのせき(現関金町)からの道で、同村で備中往来から西へ分岐、西進して久米・汗入両郡境の地蔵じぞう峠に至る。同峠には地蔵石像・常夜灯・道標が立ち、野添のぞえ(現同上)野井倉のいぐら(現東伯町)などからの道が集まる。次いで一向が平いつこうがなるを通り、大山滝(以上現同上)に続く加勢蛇かせいち川の谷沿いに進み九十九折の難路を登る。大休おおやすみ峠は大山博労座から約六キロの所にあり、大山会式のときは二、三軒の茶屋兼博労宿が開かれた。同峠を過ぎると道は石畳道に変わり、途中で岩伏分いわぶせわかレを通って川床に着く。ここには数軒の木地屋があり、博労宿も兼ねた。もう一本は赤崎あかさき(現赤碕町)からの道で、赤崎地内で伯耆街道から分れて南の大山へ向かう。尾張おわり(現同上)から緩やかな丘陵面を南進して羽田井村赤坂あかざか(現中山町)など海岸部からの道と合流。


大山道
おおやまみち

大山(現伊勢原市)参詣のために利用された道の総称。江戸中期以降庶民の間に大山信仰が広まり、参詣者の増加につれて重要な道となった。江戸からは東海道矢倉沢やぐらさわ往還とが多く利用された。東海道から大山へ向かうおもな道は五筋ある。柏尾かしお通大山道は戸塚とづか宿(現横浜市戸塚区)の手前下柏尾しもかしおで東海道から分岐、上矢部かみやべ上飯田かみいいだ(現戸塚区)千束せんぞく用田ようだ(現藤沢市)門沢橋かどさわばし(現海老名市)戸田とだ(現厚木市)上糟屋かみかすや(現伊勢原市)を通り、下柏尾から大山までは約七里。田村たむら通大山道は藤沢宿の西方辻堂つじどう四ッ谷よつや(現藤沢市)で東海道から分れ、一之宮いちのみや(現高座郡寒川町)、田村(現平塚市)を経て大山へ至り、四ッ谷から大山まで約六里。小田原方面からは多古たこ曾我別所そがべつしよ(現小田原市)田中たなか久所ぐぞ井口いのくち(現足柄上郡中井町)大竹おおだけ(現秦野市)を経て蓑毛みのげ(現同市)もしくは坂本さかもと(現伊勢原市)から大山へ至る六本松ろつぽんまつ通大山道がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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