日本歴史地名大系 「大庭保」の解説
大庭保
おおばほ
意宇平野に位置した
〔鎌倉期〕
大庭保は平安時代後期から神魂社領であったと思われる。建保三年(一二一五)七月日の左兵衛尉源某下知状(北島家文書)によると、神魂社領の田尻・大庭に対する守護所使の乱入を止め、殺害・刃傷・放火人の拘引は国造出雲氏の沙汰とすることが認められており、両地は守護不入の地とされている。承久元年(一二一九)一一月一三日の関東下知状(千家家文書)では、国造出雲孝綱が大庭社・田尻保などの地頭職に任じられている。しかし、これら二通の下知状には検討の余地がある。建長元年(一二四九)一一月二九日の将軍袖判下文(北島家文書)では出雲義孝が神魂社領の「大庭・田尻保」の地頭職を安堵されているが、同下文には承元二年(一二〇八)九月六日の下文によって孝綱の当知行が認められたとあり、孝綱の代から地頭職に任じられていたようである。この出雲義孝の地頭職安堵は、当時の出雲守護佐々木泰清の仲立ちにより実現したとみられる(建長元年一二月一二日「佐々木泰清書状」同文書)。
大庭保・田尻保の地頭職は義孝の子泰孝に譲られ、文永二年(一二六五)幕府・守護から承認されている(同年八月二二日「将軍家御教書」・同年九月六日「出雲守護佐々木泰清施行状」北島家文書)。翌三年五月二四日には泰孝は六波羅探題から両保の地頭職を安堵された(「六波羅下知状」同文書)。正応三年(一二九〇)朝原八郎為頼が禁中乱入事件を起こした際、出雲御家人大庭・田尻保地頭国造泰孝の代人「雲三政行」なる者が六波羅探題に馳せ参じている(同年四月二一日「出雲泰孝代政行着到状」千家家文書)。徳治二年(一三〇七)一二月五日に泰孝は嫡子孝時に国造職と杵築大社(出雲大社)神主職を譲り、併せて神魂社領大庭・田尻なども譲っている(「出雲泰孝譲状」北島家文書)。大庭内の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報