大庭村(読み)おおばむら

日本歴史地名大系 「大庭村」の解説

大庭村
おおばむら

[現在地名]藤沢市大庭・城南じようなん一―五丁目

北からの引地ひきじ川が東部を貫流し、西部と東端部は台地状の地形である。東は藤沢宿・稲荷いなり村、西はつつみ(現茅ヶ崎市)、南は辻堂つじどう村に接する。南を東海道と大山道が、東を厚木道(ほしのや道)が通る。

和名抄」の高座たかくら大庭郷の遺称地に比定される。保延七年(一一四一)六月日の相模国司解案(県史一)にみえる伊勢神宮領の大庭御厨は、以後室町中期まで続く。「神鳳鈔」の大庭御厨一三郷のなかにみえる大庭郷は当村域であろう。古活字本「平治物語」の「頼朝義兵を挙げらる事并平家退治の事」には「兵衛佐殿は、大庭野に十万騎にて、陣取ておはしける」とある。永正(一五〇四―二一)頃と推定される称名寺造方同陣勘定状断簡(県史三)に「五十文 大庭御陣へ路銭」とみえる。


大庭村
おおばむら

[現在地名]朝倉町大庭

現朝倉町域の南西端に位置する。西は石成いしなり村、下座げざ四郎丸しろうまる村・古江ふるえ村・鵜木うのき村・片延かたのぶ(現甘木市)など、北は同郡三奈木みなぎ(現同上)、南は長淵ながふち村と筑後川を境に筑後国竹野たけの立野たての村など(現田主丸町)。「続風土記」によると村内に小塚こつか村・米持よなもち(余名持)村・稲守いなもり村があり、枝村の下大庭しもおおば村の内には三寺みてら村・松木まつのき村があった。古くは大場村とも記した(正保郷帳)。小早川時代の指出前之帳では大庭村の田四八町五反余(分米五五三石余)・畠一二九町七反余(分大豆七二七石余)


大庭村
おおばむら

[現在地名]松江市大庭町・一の谷町いちのたにちよう八雲台やくもだい二丁目

乃白のしら村・乃木のぎ村・古志原こしばら村の南に位置し、東は山代やましろ村、南西は佐草さくさ村、村内を馬橋まばし川が東流する。四方を丘陵に囲まれ、広い平野が村の大半をなし、古代から出雲の中心地であった。村の東端を古志原村・当村を経て広瀬ひろせ(現広瀬町)に向かう往還が通じる。中世は大庭保田尻たじり保に含まれていたとみられ、出雲府中いずもふちゆうの西端にあたっていた。東端部は出雲国山代郷正倉跡があることから古代からの山代郷の郷域であったと推測される。正保国絵図に村名がみえる。慶安三年(一六五〇)検地帳(県立図書館蔵)によると高一千一三石余、寺社領一八〇石余は国造の千家・北島両家や正林しようりん(現曹洞宗)浄音じようおん寺などが領し、屋敷数は御役屋敷二九・寺社分屋敷三四。


大庭村
おおばむら

[現在地名]落合町大庭

平松ひらまつ村の北東にある。目木めき(大庭川)の流域平地と北部の三崎河原みさきかわら(現久世町)のうち五反ごたんへと続く台地、南部の笹向ささぶき山麓とからなり、西は中島なかしま(現同上)出雲往来が通り、元禄(一六八八―一七〇四)以前は同往来の宿駅で、宿屋が三軒あった(落合町史)。古代大庭郡大庭郷(和名抄)の遺称地。応永一九年(一四一二)八月一八日の京都北野社一切経供養に際して書写された大報恩だいほうおん(現京都市上京区)蔵の写経五千巻の奥書には「大庭長興寺住義秀」「大庭保常光院住頼秀」などの名がみえる。


大庭村
おおにわむら

[現在地名]松本市島立 大庭

さんみや村の北に接する。

天正検地では島立郷の中の大庭村で、村高は一七二石五斗二升となっている。「信府統記」では享保九年(一七二四)当時の石高は三〇三石五斗一升二合五勺である。


大庭村
おおにわむら

[現在地名]長柄町大庭

大津蔵おおづくら村の南に位置し、一宮いちのみや川が南流する。文禄三年(一五九四)上総国村高帳大屋村とみえ、高二五五石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数五四、幕府領と旗本真田・小島領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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