大棚村(読み)おおたなむら

日本歴史地名大系 「大棚村」の解説

大棚村
おおたなむら

[現在地名]港北区大棚町・中川なかがわ

都筑つづき郡に属し、東は吉田よしだ村・山田やまた村、南は勝田かちだ村・茅崎ちがさき村、西は石川いしかわ村・荏田えだ(現緑区)、北は牛久保うしくぼ村に接する。早淵はやぶち川が石川村より入り吉田村に流れる。西方矢倉沢やぐらさわ往還有間ありま(現川崎市宮前区)から入り荏田村に通る。中原なかはら道が山田村から入り勝田村へ通る。小田原衆所領役帳には曾根外記「卅七貫百文 小机大棚」とある。寛永二年(一六二五)一二月の荻原昌泰への知行宛行状および同年同月の窪田正道への知行宛行状、同八年三月の窪田正明への知行宛行状(以上県史八)にいずれも下山田村とみえる。山田村寄りの地は大棚下山田おおたなしもやまた村の呼称があり、天保一二年(一八四一)一一月の橘樹・都筑両郡村々への菜種作付奨励に対し免除願(県史七)のうちに「大棚村」および「大棚下山田村」が併記されている。

天正一九年(一五九一)旗本窪田四氏・荻原二氏・石坂・原・中村・山本・河野・志村領と幕府直轄領の一三給。

大棚村
ふうだなむら

[現在地名]大和村大棚おおだな

大和浜やまとはま村の西方に位置し、集落は海に臨む。大棚おおだな川が流れる。屋喜内やきうち間切の大和浜方のうち。フダナともいう。「大島私考」には大和浜方一二ヵ村のうちとして「大棚村」とみえ、高五一石余、うち享保内検後の開地は一石余。明治初年と考えられる大和浜方村明細帳(和家文書)では高頭九八石余、田八町九反余・畠二町一反余・山野一六町九反余、貢米四一石余、砂糖四万一千二四六斤、人員四九七人、現夫九一人・半現夫一六人。天保七年(一八三六)大和浜方の大棚村の沖で本琉球の楷船が破船したため、積荷を取上げ琉球役方に引渡したところ、中山王から礼状と布二端を贈られた(連官史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報