大槻村(読み)おおつきむら

日本歴史地名大系 「大槻村」の解説

大槻村
おおつきむら

[現在地名]郡山市大槻町・静町しずかまちしま一―二丁目・台新だいしん一―二丁目・亀田かめだ一―二丁目・柏山町かしわやままちつつみ鳴神なるがみ土瓜つちうり中野なかの向原むかいはらなど

郡山村の南西に位置し、郡山宿から会津への道(三森道)が通る。村名はもと大豆生おおつきと書き、大豆生産に適した地味に由来するとも、槻の大樹があったからともいう(安積郡誌抄)東端小原田こはらだ村との境の天正坦てんしようだんは、天正一八年(一五九〇)に行われた検地の際、村境に築かれた境壇に由来する地名と伝える。縄文時代のだんこし遺跡、縄文―弥生時代の隠居面いんきよめん遺跡、弥生時代の柏山かしわやま遺跡・福楽沢ふくらざわ遺跡がある。古墳は麦塚ばくづか古墳・蝦夷坦えぞだん古墳・大槻古墳群などがある。

応永一一年(一四〇四)七月日の仙道諸家一揆傘連判(有造館本結城古文書写)に、安積伊東氏一族とみられる「大豆生田 沙弥道綱」がみえる。永享一一年(一四三九)頃のものと推定される安積三郷田地注文(相殿八幡文書)に中郷のうちとして「大槻十三丁」「松井二丁」とみえる。松井まついは当地の字松井に比定される。戦国期には大槻氏が当地を領し、高行・行綱父子の頃には大槻のほか山口やまぐち八幡やわた駒屋こまや等も領したという(「大槻家浮沈録」長泉寺蔵ほか)。「塔寺八幡宮長帳」の永禄二年(一五五九)条に「せんとう陣、大槻ノ館、さから、大かわらしやうかい申候」とみえ、蘆名盛氏は大槻氏重臣相楽・大川原両氏が田村氏に内通したので誅殺し、大槻氏領も削減している(浮沈録)

大槻村
おおづきむら

[現在地名]鳥屋町大槻

眉丈びじよう山麓台地にあり、南は春木はるき村。天文一七年(一五四八)二月二〇日の気多社免田年貢支配状(気多大宮司家文書)によると、「大月村」の符方中神免田から三石五斗の年貢が符方衆中へ納められていた。同二二年一二月一〇日の能登内乱に際し、反乱軍の遊佐弾正左衛門・加治中務丞らが大名畠山氏の拠る七尾城下から三里ほど隔たった大槻に陣を布いたが、二七日七尾方の温井続宗勢の猛攻を受け、将兵三〇〇余人を討捕らえられて敗走した(「畠山氏年寄衆連署書状写」雑録追加)

大槻村
おおつきむら

[現在地名]矢板市大槻

西乙畑にしおつはた村の西、あら川左岸に位置する。近世はおおむね喜連川藩領。慶安郷帳では高二八五石、田方一七一石余・畑方一一三石余。承応二年(一六五三)に前藩主頼氏の姉島女が建立した江戸いち(現東京都新宿区)月桂げつけい寺に村内一〇〇石が寄進され(喜連川家系図)、同寺領分は幕末まで続く。旧高旧領取調帳では藩領分は高五一一石余。天保年間(一八三〇―四四)の家数三〇(改革組合村)。明治七年(一八七四)の人数三四八(「村高戸数人員取調帳」漆原長四郎文書)喜連川きつれがわ宿の助郷を勤め、天保五年に困窮を理由に高二九一石余のうち二〇四石を休役とされた(「助郷休役証文」富川重郎文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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