…とりわけ北畠満雅の弟顕雅を祖とする大河内氏が,いわゆる三御所(大河内,坂内,田丸御所)の一つとして永禄年間(1558‐70)までここに居住し,北畠本宗家と濃密な関係を維持したため,行政上はむしろ大河内が本城の観を呈した。1569年織田信長の南勢侵入に抗し,北畠具教・具房は大河内城に籠城したが,優勢な織田軍を支えきれず,信長の次男信雄の北畠氏継嗣を認めざるをえなかった。現在,坂内川右岸に大規模な城館跡が残っている。…
…山下に本格的な城下町があったとされるが(神宮文庫蔵多気城下古図),詳細は不明。1569年(永禄12)織田信長の侵攻に際し北畠氏は多気城を出,総力をあげて大河内(おかわち)城(現,松阪市)にこもって戦ったが敗れ,のち76年(天正4)に族滅する。【西山 克】。…
…その後北畠氏は多気(たけ)城に移るが,玉丸城も同氏の支配下にあり,北畠氏の家臣愛洲(あいす)氏,さらに北畠氏の庶流田丸氏の居城となる。田丸氏は田丸御所とも呼ばれ,その居城は大河内氏の拠る大河内(おかわち)城とともに,北畠氏の南勢支配の最重要拠点であった。1569年(永禄12)織田信長の侵攻後,その次男信雄(のぶかつ)の拠るところとなり,80年(天正8)信雄が細頸(のち松ヶ島,現,松阪市)に移転するまで,その領国の中枢となった。…
…南北朝期以降,北畠氏の支配が一帯に及ぶが,戦国時代になると,1560年(永禄3)大湊(現,伊勢市)からの使船が細汲に派遣されているなど,宿場・港町として発展しつつあった。 他方,永禄年間に北畠具教(とものり)が細汲に築城し,69年織田信長の伊勢侵攻のとき,城将日置大膳亮が同城で抵抗後,自焼したと伝え,北畠勢は阪内川上流の大河内(おかわち)城に籠城し,やがて和議を結ぶ。71年(元亀2)には北畠具教は,細汲に釜をすえた他国の鋳物師(いもじ)の営業を禁止し,蛸路(たこじ)や阿波曾(あわそ)に居住する当国の鋳物師に保護を与えている。…
※「大河内城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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