江戸前期、徳川3代将軍家光(いえみつ)、4代将軍家綱(いえつな)時代の老中。武蔵(むさし)国忍(おし)城主(8万石)。酒井忠勝(ただかつ)、松平信綱、酒井忠清らとともに将軍政治の基礎固めをした重要人物の一人。譜代(ふだい)の臣徒頭(かちがしら)(のち大番頭)阿部忠吉(ただよし)の次男として江戸に生まれる。通称小平次(こへいじ)。従(じゅ)五位下・豊後守(ぶんごのかみ)、のちに従四位下、侍従に昇る。1611年(慶長16)9歳で世子(せいし)家光の小姓(こしょう)として近侍、家光が将軍となると禄(ろく)を増され、1632年(寛永9)大御所秀忠(ひでただ)没後には、信綱、堀田正盛らとともに老中に次ぐ「六人衆」の一人として登用され、まもなく老中に加えられ幕政に参画した。家光没後は幼将軍家綱を助け、幕府機構の整備に努めた。その篤実、朴訥(ぼくとつ)な人柄は世人に敬愛された。数十人の捨子を育てたことなどは、その人柄を示している。
[林 亮勝]
『林亮勝著「松平信綱と阿部忠秋」(『大名列伝』所収・1967・人物往来社)』
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…33年代官で忍城番も務めた大河内久綱の子で老中の松平信綱が3万石で入封し民政の充実に尽くした。信綱は39年島原の乱鎮圧の功により6万石で川越城に転じ,同年老中阿部忠秋が下野国壬生(みぶ)城から5万石で入封,家光・家綱に仕えて加増され8万石となった。71年(寛文11)養子正能は実父の遺領1万石を上総国で加増され9万石を領し老中も務めた。…
…そのため,外様大名に比較して転封(国替)が著しく,しかもその所領は天領や旗本領との間に統廃合,切替えが行われたため,著しく分散知行化(非領国型)するに至った。例えば1664年(寛文4)武蔵忍(おし)藩の所領は,老中阿部忠秋の所領であったが,その所領高8万石は,武蔵のうち埼玉(35ヵ村),大里(31ヵ村),秩父(27ヵ村),足立(13ヵ村),幡羅(2ヵ村),男衾(9ヵ村)の6郡のほか相模三浦郡(8ヵ村),上野新田郡(7ヵ村)に存在した。幕府は親藩とともに譜代大名といえども,世嗣断絶ないし幕法違反の場合は改易し,幕藩体制の維持につとめた。…
※「阿部忠秋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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