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阿部忠秋 あべただあき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

阿部忠秋
あべただあき

[生]慶長7(1602).江戸
[没]延宝3(1675).5.3. 江戸
江戸時代初期の大名慶安4 (1651) 年老中となり,幕政に重きをなし,3,4代将軍を補佐した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

阿部忠秋 あべ-ただあき

1602-1675 江戸時代前期の大名。
慶長7年7月19日生まれ。阿部忠吉(ただよし)の長男。徳川家光小姓としてつかえ,寛永10年松平信綱らとともに六人衆(若年寄)となり,幕政に参与,12年老中。同年下野(しもつけ)(栃木県)壬生(みぶ)藩主,16年武蔵(むさし)忍(おし)藩(埼玉県)藩主阿部家初代となる。8万石。延宝3年5月3日死去。74歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

阿部忠秋

没年:延宝3.5.3(1675.6.25)
生年:慶長7.7.19(1602.9.4)
江戸前期の近習出頭人,老中,下野壬生(栃木県壬生町),武蔵忍藩(行田市)藩主。豊後守。旗本阿部忠吉の長男。母は松平康高の娘。江戸生まれ。幼少から徳川家光に仕え,膳番,小姓組番頭などを歴任しながら出世。寛永3(1626)年には1万石。同6年に1万5000石。10年松平信綱や従兄の阿部重次らと六人衆に任命され,近習出頭人として幕政に参画,以後次第に土井利勝ら秀忠以来の老中を棚上げしながら,家光政権の確立に尽力,幕政の中心的存在となる。同年老中並,12年壬生藩主となり2万5000石,同年10月老中に進み後31年間在任。同16年忍に移封5万石。この前後に江戸周辺の城に家光政権の老中らが入城,彼らが政治的にも軍事的にも幕府を支える体制を確立。正保4(1647)年6万石。慶安3(1650)年家綱の傅役。翌年家光が死去すると,松平信綱と幼少の将軍家綱をもり立て幕政を運営。しかし酒井忠清ら門閥譜代層が幕政に進出し,次第に家光以来の政治理念の変更を余儀なくされ,寛文2(1662)年僚友の松平信綱が死去すると幕閣内で孤立。翌年8万石となるが,5年老病との理由から勤務を免除され,翌6年老中を辞職。11年致仕して養子の正能に家督を譲る。死後,遺言して日光の家光廟の脇に分骨を埋葬。捨子を育てたり牢人を保護するなど,清廉篤実な人柄で人望が厚かった。才気走った松平信綱とよく比較され,信綱をたしなめる逸話が多い。<著作>『関ケ原記』<参考文献>林亮勝「松平信綱と阿部忠秋」(『大名列伝』6巻),朝尾直弘「将軍政治の権力構造」(『岩波講座日本歴史』10巻),『埼玉県史』通史編3,藤井譲治『江戸幕府老中制形成過程の研究』

(根岸茂夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

あべただあき【阿部忠秋】

1602‐75(慶長7‐延宝3)
江戸前期の譜代大名。老中。武蔵忍藩主。徳川家光の小姓,小姓組番頭となり,1624年(寛永1)遺領を継ぐ。33年松平信綱らとともに六人衆の一人となり,同年老中,35年加判の列に加えられ,下野壬生2万5000石を領した。39年武蔵忍5万石に転封。その後もたびたび加増され8万石を領した。66年(寛文6)老中を辞し,71年隠居。家光・家綱期の幕政に深く参与した。【藤井 譲治】

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大辞林 第三版の解説

あべただあき【阿部忠秋】

1602~1675) 江戸前期の老中。武蔵忍おし藩主。三十数年老中を務め、家光・家綱期の幕政に深く関与した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

阿部忠秋
あべただあき
(1602―1675)

江戸前期、徳川3代将軍家光(いえみつ)、4代将軍家綱(いえつな)時代の老中。武蔵(むさし)国忍(おし)城主(8万石)。酒井忠勝(ただかつ)、松平信綱、酒井忠清らとともに将軍政治の基礎固めをした重要人物の一人。譜代(ふだい)の臣徒頭(かちがしら)(のち大番頭)阿部忠吉(ただよし)の次男として江戸に生まれる。通称小平次(こへいじ)。従(じゅ)五位下・豊後守(ぶんごのかみ)、のちに従四位下、侍従に昇る。1611年(慶長16)9歳で世子(せいし)家光の小姓(こしょう)として近侍、家光が将軍となると禄(ろく)を増され、1632年(寛永9)大御所秀忠(ひでただ)没後には、信綱、堀田正盛らとともに老中に次ぐ「六人衆」の一人として登用され、まもなく老中に加えられ幕政に参画した。家光没後は幼将軍家綱を助け、幕府機構の整備に努めた。その篤実、朴訥(ぼくとつ)な人柄は世人に敬愛された。数十人の捨子を育てたことなどは、その人柄を示している。[林 亮勝]
『林亮勝著「松平信綱と阿部忠秋」(『大名列伝』所収・1967・人物往来社)』

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367日誕生日大事典の解説

阿部忠秋 (あべただあき)

生年月日:1602年7月19日
江戸時代前期の大名
1675年没

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世界大百科事典内の阿部忠秋の言及

【忍藩】より

…33年代官で忍城番も務めた大河内久綱の子で老中の松平信綱が3万石で入封し民政の充実に尽くした。信綱は39年島原の乱鎮圧の功により6万石で川越城に転じ,同年老中阿部忠秋が下野国壬生(みぶ)城から5万石で入封,家光・家綱に仕えて加増され8万石となった。71年(寛文11)養子正能は実父の遺領1万石を上総国で加増され9万石を領し老中も務めた。…

【譜代大名】より

…そのため,外様大名に比較して転封(国替)が著しく,しかもその所領は天領や旗本領との間に統廃合,切替えが行われたため,著しく分散知行化(非領国型)するに至った。例えば1664年(寛文4)武蔵忍(おし)藩の所領は,老中阿部忠秋の所領であったが,その所領高8万石は,武蔵のうち埼玉(35ヵ村),大里(31ヵ村),秩父(27ヵ村),足立(13ヵ村),幡羅(2ヵ村),男衾(9ヵ村)の6郡のほか相模三浦郡(8ヵ村),上野新田郡(7ヵ村)に存在した。幕府は親藩とともに譜代大名といえども,世嗣断絶ないし幕法違反の場合は改易し,幕藩体制の維持につとめた。…

※「阿部忠秋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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