日本歴史地名大系 「榛沢郡」の解説 榛沢郡はんざわぐん 埼玉県:武蔵国榛沢郡「和名抄」にみえ、訓は東急本に「伴佐波」、名博本に「ハンサワ」とある。戦国期には半沢と書かれることがあった(永禄二年七月二九日「聖護院門跡御教書」上田文書など)。江戸時代の郡境は、北は利根川を挟んで上野国、東は幡羅(はら)郡、西は児玉郡・那賀(なか)郡、南は男衾(おぶすま)郡で、現在の大里郡花園(はなぞの)町・岡部(おかべ)町と本庄市・大里郡川本(かわもと)町・同郡寄居(よりい)町・深谷市の一部にあたる。〔古代〕「和名抄」高山寺本に新居(にいい)・榛沢・瞻形(いかた)・藤田(ふじた)の四郷が記され、東急本では余戸(あまるべ)郷が加わる。榛沢郷は郡衙所在郷と推定され、岡部町の榛沢周辺に比定する説がある。また同町岡の中宿(おかのなかじゆく)遺跡から掘立柱建物跡が多数検出され、その規模や構造から郡衙の正倉の一部と推定されている。式内社はない。平城京の長屋王邸宅跡の北に接する地点から出土した木簡に「榛沢郡十一斤八両」と書かれたものがある。年紀はないが、一括して出土した他の木簡は天平七、八年(七三五、六)のものが多いので、この頃のものとしてよい。「十一斤八両」という量が記されているが品名はわからない。寄居町の中心部から北へ天沼(あまぬま)川源流近くの鐘撞堂(かねつきどう)山に連なる尾根上、標高二〇〇メートル以上のところに馬騎の内(まきのうち)廃寺がある。斜面を削った平場が一六ヵ所確認され、基壇状の盛土や礎石もみられる。出土瓦や表採遺物から、七世紀中葉に創建され平安時代まで存続した氏寺的性格をもった山岳寺院と考えられている。尾根の南側の麓一帯、同町の末野(すえの)・桜沢(さくらざわ)から花園町の武蔵野(むさしの)にかけてには、武蔵国内で最古の成立といわれる末野窯跡群がある。末野の地名は須恵器を焼いたところからきており、七世紀中葉の馬騎の内廃寺の造営に伴い、瓦や寺で使用する日用雑器を作るために工人が集められ、七世紀末に生産が定着したと推定されている。その後八世紀から九世紀に最盛期をむかえ、一〇世紀には衰退した。八世紀には武蔵国分寺(現東京都国分寺市)造営のために大量の瓦が供給された。よく知られているように、武蔵国では各郡から瓦を献納させて国分寺の瓦をまかなったため、国分寺からは各郡の郡名の入った瓦が多数出土している。しかしすべての郡に大量の瓦を生産する窯が整っていたのではなく、他郡へ発注していたようである。その証拠に末野窯跡群からは、榛沢郡はもとより、幡羅・那珂(なか)・秩父・多摩の郡名瓦が確認されている。岡部町榛沢の六反田(ろくたんだ)遺跡は榛沢郷を形成する集落遺跡と考えられている。古墳時代前期から一一世紀までの住居跡が確認された長期にわたる遺跡であるが、八、九世紀の集落についてはいくつかの住居跡群に区分するなどの分析が試みられ、戸籍との関係が論じられる素材を提供している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by