大野城下(読み)おおのじようか

日本歴史地名大系 「大野城下」の解説

大野城下
おおのじようか

[現在地名]大野市しろ町・水落みずおとし町・かなめ町・ほん町・にしき町・もと町・いずみ町・明倫めいりん町・日吉ひよし

大野盆地の北西部、独立小丘かめ(二四九メートル)の東に広がる大野藩四万石の城下町。南から北に緩く傾斜する木本このもと扇状地の末端部に位置し、豊富な湧水をみる。

〔城主の変遷〕

天正三年(一五七五)織田信長より大野郡の三分の二を与えられた金森長近は亀山に天守閣を築き、その東麓に二の丸・三の丸を配して城郭とし、武家屋敷をその周囲に、さらにその東に接して町屋を形成させた。しかし長近は同一三年八月飛騨国高山たかやま(現岐阜県高山市)に転封。その後青木一矩、織田秀雄が在城したが、慶長六年(一六〇一)結城秀康の越前入国後、その家臣土屋正明が在城、三万八千石を知行した。正明は同一二年四月秀康に殉死し、その子忠次が四万石で在城したが、同一四年幕府の追罰をうけ小栗正高に代わった。

寛永元年(一六二四)六月、秀康の子松平直政が上総国姉崎あねがさき(現千葉県市原市)より五万石で移封され大野藩となった。この後同一二年直基、正保元年(一六四四)直良と兄弟が継ぎ、延宝六年(一六七八)直良の子直明が継いだが、天和二年(一六八二)三月明石あかし(現兵庫県明石市)に移り、代わって土井利房が常陸国下妻しもつま(現茨城県下妻市)より四万石で入封。以後土井氏は明治維新まで続いた。

大野藩の所領は大野郡内が大半で、大野町を中心に七八ヵ村、ほかに織田おた(現丹生郡織田町)を中心とする丹生郡内に一三ヵ村、足羽あすわ郡内大窪おおくぼ(現美山町)一ヵ村で三万九千五九四石余であった。

〔町割〕

城下の町について「越前国名蹟考」は鷹匠たかじよ町・正膳しようぜん町・ヶ町・勝山口かつやまぐちやなぎ町・本町・二番にばん町・三番さんばん町・四番しばん町・五番ごばん町・六間ろつけん町・七間しちけん町・八間はちけん町・石灯籠いしどうろ小路・てら町・比丘尼びくに町・新堀しんぼり清水しようず・頓入屋敷・野口のぐちよこ町・大鋸おが町・皮屋かわや町・春日かすが町・宮小路みやしようじ神明しんめい町・後山うしろやま村・葭原よしはら町・代官だいかん町・水落みずおとし中野なかのを記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報