日本大百科全書(ニッポニカ) 「大野藩」の意味・わかりやすい解説
大野藩
おおのはん
越前(えちぜん)国大野郡(福井県大野市)に本拠を置く4万石の譜代(ふだい)藩。藩主土井(どい)氏。藩領域は越前三郡92か村、大部分が大野郡内で78か村、他は丹生(にふ)郡13か村と足羽(あすわ)郡に1村であった。1575年(天正3)織田信長が越前の一向一揆(いっこういっき)を平定したおり、部将金森長近(かなもりながちか)に大野郡の3分の2を与え、居城を大野亀山(かめやま)に築かせたことに始まる。金森が飛騨(ひだ)(岐阜県)高山(たかやま)へ転出後、豊臣(とよとみ)秀吉麾下(きか)の青木、長谷川、織田の諸将が城主となった。関ヶ原の戦い後、福井藩祖結城秀康(ゆうきひでやす)が越前国主となって重臣を城代として配置、1624年(寛永1)以降は秀康の男松平直政(なおまさ)、同直基(なおもと)、同直良(なおよし)が相次いで支藩主として5万石を領した。直良没後は子の直明(なおあき)が相続したが、1682年(天和2)播磨(はりま)(兵庫県)明石(あかし)に転封、直明のあとには土井利勝(としかつ)の四男利房(としふさ)が下野(しもつけ)(栃木県)足利(あしかが)より入封して4万石を領有した。ここにおいて領主は定着し、以後土井氏が8代、190年にわたって統治した。
その治政では7代利忠(としただ)(1811―1868)の藩政改革が注目される。藩の窮乏を立て直し、人材を育成するため、1842年(天保13)に改革に着手、産業の振興、教学の刷新に成果をあげた。産業面では国産を奨励して藩店大野屋を各地に設け、重商主義的富国策に成功、教学面ではとくに洋学を督励して1856年(安政3)蘭学館(らんがくかん)を創設した。また、北蝦夷地(きたえぞち)(樺太(からふと))の開拓を行い、1860年(万延1)幕府の許可を得て同地を準領地としている。1871年(明治4)廃藩、大野・福井・足羽・敦賀(つるが)・石川各県を経て、1881年再置の福井県に編入された。
[舟澤茂樹]