奈留浦(読み)なるうら

日本歴史地名大系 「奈留浦」の解説

奈留浦
なるうら

中世にみえる五島の浦。永仁六年(一二九八)四月に海俣かいまた(現若松町)の沖で藤太郎入道忍恵の関東御分唐船が難破、五島の船党らがこの船から砂金・円金・水銀樽・珠・細絹・金銅・脛当・太刀・剃刀・蒔絵硯箱などの関東方々(北条氏一門や浄智寺方丈)の御物を運び取り(同年六月二九日「関東使者義首座注進状案」青方文書など)幕府は六月の義首座らの報告にもとづき積荷返還を「奈留兵衛二郎入道々仏」らに命じており(同年八月一八日「鎮西探題奉行人施行状案」同文書)奈留島を拠点にする者であろう。嘉元三年(一三〇五)青方覚念を訴えた峰貞は、放火狼藉を行った下手人として青方氏・曾禰氏らとともに奈留平四郎をあげており(同年六月日「峰貞注進状案」同文書)、この時は宿浦しゆくのうら(現若松町)を居住地としている(延徳二年三月日「峰貞申状案」同文書など)。文保二年(一三一八)那留兵衛次郎入道の後継者は肥前一宮の河上かわかみ(現佐賀県大和町)の一国平均造営用途として課された五島浦知行分を納めずに訴えられたが、あまつさえ召文にも応じなかったため、弁済を命じられている(同年一二月九日「鎮西裁許状案」実相院文書)

元応二年(一三二〇)八月日の青方高光申状案(青方文書)によれば、青方高光とその兄の高継との相論で高継が父の能高(覚心)の譲状を書いた長弁(法明)の自筆状を幕府に提示して譲状との校合(筆跡鑑定)を求めたのに対して、高光は長弁と法明が別人で長弁の子孫宇久うく(現宇久町)に多く、法明の子孫は奈留・大値賀上下おおちかかみしも村、たま(現玉之浦町)に多いと主張している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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