姶良庄(読み)あいらのしよう

日本歴史地名大系 「姶良庄」の解説

姶良庄
あいらのしよう

現吾平町域一帯にあったとみられる大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)領の庄園。大隅国建久図田帳に姶良庄五〇余丁とみえ、正宮大般若庄内沙汰、元吉門高信宗清所知と記される。開発の時期等は不明だが、庄鎮守と考えられる正若宮八幡宮(現八幡神社)が長久四年(一〇四三)創建とされることから、平安時代中期とも推測される。「管窺愚考」所収の得丸氏古系図には、万寿年間(一〇二四―二八)開発された島津庄の開発領主平季基の弟良宗が当庄の開発領主としてみえる。良宗の子良高が得丸とくまる名を得て子良門に伝え、良門子良包の長子良長が得丸名、次子良成が得丸名内西迫にしさこ名、良宗の弟宗高が末枝すええだ名、同じく良宗の弟宗清が末次すえつぐ名をおのおの譲与された。図田帳にみえる吉門は良門、高信は宗高の子高信をさすとみられ、宗清分と合せ、建久八年(一一九七)以前はこの三家が知行していたのであろう。建久九年三月一二日の大隅国御家人注進状写(隼人桑幡文書)には大隅正八幡宮領内の宮方の御家人として姶良平太夫良門・小平太高延・新太夫宗房の名があげられている。高延は高信、宗房は宗清の子であろう。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)には姶良庄五〇丁とあり五丈分の築造を課されている。五〇丁の内訳は得丸名二〇丁(うち本名一七丁・名主神一丸、残り三丁・名主六郎兵衛尉助元)・末枝名二〇丁(名主御家人諸二郎拯高友)末次名八丁(名主平太夫入道)・同中隈二丁(名主六郎兵衛尉助元)であった。

鎌倉時代後期から南北朝期にかけて隣接する肝付きもつき郡弁済使(伴姓肝付氏)一族の勢力が当地に及んできたようで、元応二年(一三二〇)頃には肝付郡東方ひがしかた弁済使野崎宮内左衛門尉兼賢と同郡岸良きしら(現内之浦町)弁済使阿性により姶良庄弁済使道知房永信らが殺害され、永信の子息永俊らから大隅守護へ数度訴えが出されている(元応二年一〇月二二日「散位清保奉書」・元亨元年七月日「姶良庄弁済使永信子息女等重申状」旧記雑録など)。貞和四年(一三四八)六月一四日には姶良庄内田地二〇丁山野等などが平(渋谷)重職から王寿丸に譲渡され、観応二年(一三五一)五月一八日に重職により再確認された(「平某譲状案」肥前泰長院文書)。同年八月三日には楡井頼仲与党の島津田三位房・饗庭九郎らの拠る当庄内井上いがみの城が畠山直顕に属する禰寝氏軍勢に攻略されている(同年八月日「禰寝清成軍忠状写」・同年八月七日「畠山直顕感状」禰寝文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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