日本歴史地名大系 「宇津峰城跡」の解説 宇津峰城跡うづみねじようあと 福島県:須賀川市塩田村宇津峰城跡[現在地名]須賀川市塩田、郡山市田村町谷田川・田村町栃本阿武隈台地中の三角錐状の独立峰にある。山頂からは岩瀬・安積(あさか)・田村・石川・磐城諸郡が見渡せる要害の地で、古く田村将軍利仁が鬼神退治のため当国に下向し、この山に住したと伝える(岩瀬風土記)。埋峯とも書く。南北朝期に南朝方の本拠となった城郭で国指定史跡。興国元年(一三四〇)五月一六日の北畠親房書状写(松平結城文書)に「宇津峰方」とみえ、同年北畠顕信が守永親王(宇津峰宮とも)を擁して当城に入った。康永三年(一三四四)、関東での大勢が決すると、石塔義元は当城攻撃のため先陣を相馬親胤に命じているが(同年四月二二日「石塔義元軍勢催促状」相馬文書)、攻撃は行われなかったようである。貞和三年(一三四七)七月、吉良貞家・畠山国氏・石塔義房らの率いる北朝方の軍勢による田村庄宇津峰城や藤田(ふじた)(現国見町)・霊山(りようぜん)(現霊山町)両城等の南朝方に対する総攻撃が開始され(観応三年一一月二二日「吉良貞家挙状」同文書など)、当城には同年八月八日に石河兼光が馳せ向うなど、石河・国魂氏らの攻撃により落城し(貞和三年九月日「石河兼光軍忠状」遠藤白川文書など)、顕信らは出羽に逃れた(須賀川市史)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by