日本歴史地名大系 「安倉村」の解説 安倉村あくらむら 兵庫県:宝塚市安倉村[現在地名]宝塚市安倉中(あくらなか)一―六丁目・安倉北(あくらきた)一―五丁目・安倉西(あくらにし)一―四丁目・安倉南(あくらみなみ)一―四丁目・金井町(かないちよう)・口谷西(くちたににし)一―三丁目・弥生町(やよいちよう)・泉町(いずみちよう)・小浜(こはま)一―二丁目・同四丁目・寿町(ことぶきちよう)・米谷(まいたに)一丁目川辺(かわべ)郡に所属。小浜町の南にあり、大坂道が通る。武庫(むこ)川を挟んで西は武庫郡伊孑志(いそし)村・蔵人(くらんど)村。慶長国絵図には阿倉村とみえる。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では安久良村と記される。正保国絵図は京都府立総合資料館本が安久良、大分県竹田市立図書館本が安倉とあって表記が混在し、寛文九年(一六六九)頃の尼崎藩青山氏領地調(加藤家文書)では安倉良西村とみえる。天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳では安倉村となり、この頃から安倉村の表記が一般的になる。ほかに枝郷があった。枝郷を含めた石高は慶長国絵図で一千二三三石余。正保郷帳では高一千三四八石余。前掲御料私領村高帳によると高一千三六五石余、うち新田高一七石余。享保二〇年(一七三五)の摂河泉石高調では、高一千四四六石余。前掲御改帳では幕府領(尼崎藩建部政長預地)。村の大部分は貞享三年(一六八六)に武蔵忍藩領となり(前掲御料私領村高帳では高九六六石余)、文政六年(一八二三)幕府領に戻ったが、同一〇年三卿の一橋領となり幕末に至る(宝塚市史)。 安倉村あぐらむら 高知県:安芸郡北川村安倉村[現在地名]北川村安倉菅(すげ)ノ上(うえ)村の南西、小川(こがわ)川右岸に集落があり、左岸は険しい山が迫る。西は地蔵(じぞう)峠を越えて弘瀬(ひろせ)村。北川村の枝村。平家の落人が開いたという伝承があるが、江戸時代に全集落が山崩れで埋没したことがあるともいわれる。なお中岡慎太郎が庄屋見習の時に、村内ナガサデを開墾したともいわれる。天正一五年(一五八七)の北川之村地検帳は「自是安蔵村」として東小川名五七筆二町二反七代四歩、うち切畑五反二〇代を記すが、その多くは山畠か下々田で、切畑には稗・芋・小豆が植えられている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by