南条村(読み)なんじようむら

日本歴史地名大系 「南条村」の解説

南条村
なんじようむら

[現在地名]館山市南条

下真倉しもさなぐら村の東に位置し、汐入しおいり川の中流域に展開する。北は大網おおあみ村、南東は山荻やもおぎ村。北方に位置する北条ほうじよう村に対しての呼称が地名の由来と思われる。南に大戸おおと村、南東に作名さくな村の枝郷がある。両枝郷は実質的には独立した一村として扱われていたが、郷村帳類では本村である当村に含まれて高付される場合も多かった。両枝郷は明治八年(一八七五)正式に当村から分村した。地内の台地上には中世の南条城跡がある。烏山うやま城ともよび、戦国時代に里見氏家臣烏山氏の居城であったとされる(烏山家譜)。里見氏の天文の内訌に関連して烏山氏が滅びたあとしばらく廃城となっていたが、里見義頼の次男弥九郎が正木氏を名乗って同城に入ったとされる(「里見九代記」など)


南条村
みなみじようむら

[現在地名]柏崎市南条

東は八石はちこく山で小国おぐに郷の横沢よこさわ(現刈羽郡小国町)、西は鯖石さばいし川を挟んで加納かのう村、北は北条きたじよう村、南は善根ぜごん村と地続きで境する。古伝に駒岡こまおか村と称したというが時代は不分明(白川風土記)佐橋さばし庄南条の遺称地。文永七年(一二七〇)七月一五日の寂仏(毛利経光)譲状写(毛利家文書)に「ゑちこのくにさはしのしやう南条」とあり、大江広元の孫寂仏が佐橋庄南条の地頭職を時親に伝領している。さらに年未詳の毛利元春自筆事書案(同文書)には「了禅跡所領等事、越後国佐橋庄南条七ケ条土貢二千余貫、内五ケ条了禅譲庶子等畢、残庄屋・カンナウ二ケ条ハ親父宝乗分也、土貢八百余貫、是等者元春譲状之外也」とあって、南条は二千貫の地で、七ヵ条に分れている。


南条村
みなみじようむら

[現在地名]飯山市大字あさひ

外様平とざまだいら南部の村。富倉とみくら道の道筋で、谷筋道によって中条ちゆうじよう北条きたじようへも通ずる。富倉峠の登り口に上新田かみしんでん、峠の西側に関屋せきやの二新田集落がある。

応安三年(一三七〇)四月付、市河甲斐守頼房あての信濃守護小笠原長基宛行状に「常岩御牧南条内五ケ村、為兵粮料所公方御左右間、所預置也」とあるのが初見。その三ヵ月後には上杉朝房が藤井下野守入道に対して「常岩南条・後閑・水沢・有尾・中曾禰等」を安堵し、更に四ヵ月後同年一〇月八日急速に打渡すべく督促を行っている(「上杉朝房奉書」上遠野文書)


南条村
みなみじようむら

[現在地名]安八町南条

長良川の右岸森部もりべ輪中南端の低湿地に位置し、同輪中の悪水を大江おおえ川から当村の樋門を経て堤外に排出していた。「名森村史」に寛文五年(一六六五)五月の絵図には当村の南西部から南東部に輪中堤が描かれていたとあり、この時期には森部輪中の囲堤集落であったと考えられる。村名は古代の条里の名残といわれる(同書)慶長郷帳に村名がみえ、慶長一五年(一六一〇)の徳川家康朱印状写(徳川林政史研究所蔵)によると、当村の二三七石余が石河光忠(のち石河氏は尾張藩家老)に宛行われている。同一七年から尾張藩領となり、幕末に至る。正保郷帳では田高九九石余・畑高一三六石余・桑木高四斗余。明暦覚書によると、概高一七九石余、人数一四八、馬一五、船役銭を船奉行に納めた。


南条村
なんじようむら

[現在地名]韮山町南条

狩野かの川右岸に隣接する下田街道沿いの村。北は中条ちゆうじよう村。西にし浦・ひがし浦交通の要所南条河岸(渡船場)があり、下田街道との交点であった。よって「宿」ともよばれ、元禄期(一六八八―一七〇四)から酒造・茶・煙草・小間物・繊維・紙などの商人が存在し(元禄二年「村明細帳」石井家文書など)在郷町の色彩が濃い。中世は南条郷と称された。近世初頭は韮山城主内藤信成領で、慶長二年(一五九七)の検地を受けた(萩原文庫文書)。慶長六年幕府領、宝永七年(一七一〇)相模荻野山中藩領となり幕末に至る(韮山町史)


南条村
なんじようむら

[現在地名]亀岡市曾我部そがべ町南条

北は重利しげとし西条にしじよう、東は下矢田しもやだ、南はてら、西は犬飼いぬかいの村村。重利・西条の地とともに中世の川上かわかみ村の内でその中心地域である。川上の名は、中世川上掃部が居住したことによるという(丹波志桑船記)。南条の名は条里制の名残との説もある。

村の東、たつ山西麓には石室をもった古墳が数基ある。


南条村
みなみじようむら

[現在地名]上郷町南条

現上郷町東部、当村から飯沼一帯の平坦な水田地帯は、天竜川西岸の段丘崖下の自然湧水に潤される沼沢地で、古代の条里的遺構と想定される道路や区画が現存する。

村名の文献上の初出は天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳の「一千七百九石八斗七升六合 南条飯沼」であり、飯沼と一括され、独立した村として認められていない。寛永一四年(一六三七)の信州伊那郡縄帳(松下忠男氏蔵)では村高四五〇石の独立した村として記帳されていることから、飯沼村から分離独立したのは江戸時代の初期、脇坂氏時代とみられる。


南条村
なんじようむら

[現在地名]姫路市南条南条一―三丁目

飾東しきとう郡に所属。いち川下流の右岸、北条ほうじよう村・庄田しようだ村の南に位置する。北条村とともに条里制にかかわる地名であろう。文亀三年(一五〇三)八月吉日の重慶等連署散用状(松原八幡神社文書)によると、「南条馬繋分」に松原まつばら八幡宮領の田二段があった。天正九年(一五八一)九月九日の惣社集日記(智恵袋)からは、大永元年(永正一八年、一五二一)五月の惣社(射楯兵主神社)祭礼に「南条村」の農長柳葉四郎大夫と農民三〇人が参加したことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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