安来津(読み)やすぎのつ

日本歴史地名大系 「安来津」の解説

安来津
やすぎのつ

[現在地名]安来市安来町

現安来町地域に発達した湊。

〔中世〕

中世の安来津は現在の安来港よりさらに内陸部に入った所に所在したと推定される。成立は山陰地域における日本海水運が基幹的交通手段としての地位を獲得する中世成立期の平安時代末期までさかのぼると推定され、若狭国小浜おばま(現福井県小浜市)を経由して京都の庄園領主のもとに年貢・公事などを輸送する目的で成立した日本海沿岸部の湊の一つと考えられている。「増鏡」巻一九に元弘二年(一三三二)三月のこととして、隠岐国に流されることになった後醍醐天皇が、「出雲の国やすきの津という所より、御船にたてまつる」とある。次いで建武五年(一三三八)一月日の諏訪部時蓮代同時行軍忠状(三刀屋文書)に、伯耆国の南朝方軍勢が「当津」に攻めてきた時、これと闘い負傷したと記されている。正平九年(一三五四)九月二六日、足利直冬は京都祇園社の祠官に対し、祈祷のために同社の幸晴を安来まで差進めたのは神妙と伝えており(「足利直冬御教書案」八坂神社文書)、直冬の要請を受けた幸晴が、小浜から日本海経由で安来を訪れていたことが知られる。

安来津は伯耆国と近接し、伯耆から出雲への入口にもあたっていたところから、足利直冬が伯耆山名氏と結んで出雲への勢力拡大に努めた南北朝内乱の際、重要な軍事拠点として機能した。杵築大社の国造北島貞孝が、直冬が安来津に滞在していたとき兄孝宗(千家)の非分を訴えたというのも(正平一二年一月日「国造北島貞孝申状」北島家文書)、これをうかがわせるものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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