現鳥取県域の西半を占める。北は日本海に面し、東西に細長く延びる。東は因幡国、南は美作国・備中国・備後国、西は出雲国に囲まれる。南部には中国山地の山々が連なり、その中央部に大山がそびえる。東部天神川流域には倉吉平野、西部日野川流域には米子平野が展開、北西部には弓浜半島の大砂洲が延びる。国名の「伯耆」の由来について、「諸国名義考」所収の「伯耆国風土記」逸文とされる一文には、八頭の蛇に追われ山中に逃げ入った手摩乳・足摩乳の娘の稲田姫が、母が遅れて来たので「母来ませ、母来ませ」と叫んだことから「
大化前代の政治的中心地域は、古墳の分布などから天神川下流域・日野川下流域の平野部、大山北西麓の三ヵ所が想定され、それぞれに有力首長がいたとみられる。「国造本紀」には志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に「牟邪志国造同祖、兄多毛比命児、大八木足尼」を伯岐国造に定めたとある。そのほか後世の史料・記録から存在が推定される伯耆国の豪族はわずかに伯耆造・鴨部氏・日下部氏や星川君・山守連などがあげられるにすぎず、因幡国に比して少ない。また「和名抄」記載の郷名とのかかわりや出雲国計会帳(正倉院文書)の記載などから推定される部民は掃守部・舎人部・倭文部・立縫部・久米部・勝部・鴨部・神部・山守部・海部の一〇種で、二〇種以上を数える因幡国を下回る。このことから伯耆は因幡に比べ大和朝廷との結び付きが薄く、独立性が強かったということができるかもしれない。
「続日本紀」大宝元年(七〇一)八月二一日条に「伯耆」など一七国で蝗・大風の害があったことが記される。「大宝令」では面積・人口から伯耆国は因幡国とともに上国とされ、都からの距離によって定められた近国・中国・遠国の制では、因幡が近国であるのに対し伯耆は中国と規定された。「和名抄」によれば伯耆国は、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
旧国名。伯州。鳥取県の西半部。
山陰道に属する上国(《延喜式》)。律令制では河村,久米,八橋(やばせ),汗入(あせり),会見(あいみ),日野の6郡,48郷からなり,国府は天神川の支流国府川(こうがわ)流域の久米郡八代(やしろ)郷(現,倉吉市国府(こう))におかれた。倉吉平野を北流して日本海に注ぐ天神川流域周辺は,大化前代以来政治・文化の一中心地で,多数の古墳が分布し,条里制遺構も顕著で,国府周辺の国分寺をはじめ古廃寺跡も多い。国内の式内社は,国名のもとになったとされる天神川下流域の波々伯(ははき)神社を含め6座(いずれも小社)を数えるにすぎないが,大山(だいせん)や三徳(みとく)山など古来著名な修験霊場が多くの崇敬を集めていた。これらの山には平安期に大山寺,三仏寺などの山岳寺院が建立され,密教系寺院の一大勢力地域を形成した。中でも大山寺は平安末期の最盛期には300名に上る僧兵を擁したといわれ,山陰地域一帯に勢力を誇った。歴代国司のうちには万葉歌人山上憶良がおり,《小右記》の筆者藤原実資の猶子資頼(すけより)もその一人であった。藤原資頼は1023年(治安3)落書(らくしよ),投文(なげぶみ)などによって窮地に立たされたが,これは伯耆国における国司苛政上訴闘争の一つとして位置づけられるものである。
11~12世紀の中世的な郡郷制と中世荘園制支配体制の成立を中世の画期とすることができる。中世の伯耆は隣国出雲とともに比較的荘園の発達したところに特徴があり,現在31の荘園の存在が確認されている。そのおもなものは,皇室領久永(くえ)御厨・稲積荘・山守荘・矢送(やおくり)荘・宇多河東荘,摂関家領笏賀(くつが)荘・長田荘,松尾神社領東郷荘,石清水八幡領山田荘,賀茂神社領星河荘,鴨社領所子(ところご)荘,山門領宇多河荘・大山荘・保田(やすだ)荘,醍醐寺領国延(くにのぶ)保などである。これらの荘園はいずれも天神川,日野川各流域周辺と大山裾野,日本海沿岸の平野部にあり,一方国衙領は山間部と国府周辺に分布する傾向にあった。国府周辺地域は中世にも伯耆国の政治的中心地をなしていた。鎌倉期の守護所もここに置かれたと推定され,また南北朝期以後新しく入部してきた守護山名氏も,国府周辺に田内城,打吹(うつぶき)城を築いてその拠点とした。中世の伯耆は古代以来の6郡からなり,その郡領域も古代と基本的に異なるところはなかった。中世の郡が一種の地域区分表示にとどまったことは他の山陰諸国と同様であるが,このような郡構成のあり方は伝統的な国衙支配機構がなお重要な意味をもったことを示唆している。国府近くの小鴨(おがも)郷に拠点をおく有力在庁の小鴨氏が,中世を通じてその勢力を維持・拡大したのはその一つの現れと考えられる。
いま一つ注目されるのは,東部の国府周辺に対し,西部の大山裾野,米子平野部にもう一つの地域的中心が形成され,この東西両地域の対立競合が中世の伯耆を貫いていることである。早くは治承・寿永の内乱期に,有力在庁小鴨氏と〈会東郡地主〉を自称する紀(村尾)氏が国内を二分して勢力を競ったのにはじまり,戦国・近世初期には河村,久米,八橋の東3郡と汗入,会見,日野の西3郡がそれぞれ分割領有されるまで,この構図は基本的に維持された。国府周辺の倭文(しどり)神社が中世伯耆国一宮であるのに対し,大山寺の守護神大神山(おおがみやま)神社が二宮にあてられていたのは,このような歴史的背景によると考えられる。中世荘園制支配の変質・動揺過程を示すものとして1258年(正嘉2)作成の東郷荘下地中分絵図の存在がよく知られているが,関連史料が欠如し,具体的な内容や経過等はなお明らかでない。鎌倉後期の伯耆守護が六波羅探題南方(北条氏)であったこと,および1333年(元弘3)隠岐を脱出した後醍醐天皇が船上山に拠って倒幕の旗を揚げたことにより,伯耆国は一躍南北朝内乱幕開けの舞台となり,名和長年とその一族の名を知らせることとなった。長年が京都で討死をとげてから1年と経たぬ1337年(延元2・建武4),伯耆国には山名氏が新守護として入部し,またたくまに伯耆一円に及ぶ領域的支配権を確立した。しかし守護山名氏の領国支配も内実はそれほど安定していたわけではなく,岩倉城小鴨氏,羽衣石(うえし)城南条氏,尾高城行松氏をはじめ,鎌倉末・南北朝期以来それぞれの地域に城を築いてここに拠った国人・土豪層の自立性を抑ええたわけでもなかった。
山名氏を西軍の大将として開始された応仁・文明の乱は,このような矛盾を一挙に顕在化させた。伯耆における戦国の争乱は,1480年(文明12)から翌年にかけて展開された山名政之と元之との山名氏一族内部の対立をその端緒とするが,隣国雲州尼子氏の圧迫を受けて,その様相はいっそう複雑となった。1524年(大永4)尼子経久は大挙して伯耆に進入し,たちまちのうちに伯耆一円を制圧した。この〈大永の五月崩れ〉により,倉吉打吹城と山名澄之や北条堤城の山田氏をはじめ南条氏,小鴨氏,行松氏など伯耆の国人・土豪層はそのほとんどが没落し,本貫地を離れて各地に流浪した。尼子氏の没落後,再興した羽衣石南条氏が東伯耆3郡を,また尾高城に拠る毛利氏の部将杉原氏が西伯耆3郡をおさえ,さらに81年(天正9)の鳥取城落城と85年の豊臣,毛利間の和平により,あらためて東3郡は織田方南条氏,西3郡は毛利方吉川(きつかわ)氏に預けられることとなった。この間,戦乱の過程でほとんどの荘園が崩壊していったが,その最終的な解体は91年の太閤検地をまたねばならなかった。なお南北朝・室町期の伯耆では,羽衣石南条氏や守護山名氏などの保護を得て,禅宗寺院が大きな勢力を振るったことが注目される。
執筆者:井上 寛司
1600年(慶長5)関ヶ原の戦の結果,いずれも西軍方であった河村・久米・八橋3郡の支配者,羽衣石城主南条元続は改易に,汗入・会見・日野3郡の支配者,米子城主吉川広家は周防国への転封に処せられた。そのあと伯耆国6郡18万石を領有する中村忠一が米子城主として入封,重臣横田村詮(内膳正)の補佐によって,城郭・城下町の整備を行ったが,09年忠一の病死後改易された。そのあとは,米子城主とされた加藤貞泰が会見・汗入2郡6万石を,八橋城主とされた市橋長勝が八橋郡3万石余を,黒坂城主とされた関一政が日野郡5万石をそれぞれ支配した。久米・河村2郡は幕府直轄領とされ,倉吉に派遣された代官山田直時(五郎兵衛)が支配した。1591年安房国から里見忠義が倉吉に配流され,その周辺の地約4000石を与えられたが,1617年(元和3)池田光政が鳥取城主として入封。因・伯両国32万石を領治したので,彼に預けられ,22年死没した。なお光政入部の前後,加藤・市橋両氏は他に移封,関氏は改易された。光政は倉吉,米子に家老伊木長門,池田出羽を配置して領内支配を固めさせたが,32年(寛永9)岡山に移封,交替の形で岡山から池田光仲が鳥取城主として入部,因・伯32万石を領知し,明治維新に及んだ(鳥取藩)。初期の伯耆国の拝領高は17万0257石余で,それ以外に大山寺領3000石があった。幕末1834年(天保5)の生高(耕作高)は21万3949石余で,新田開発による耕地の増加はいちじるしかった。とくに会見郡の米川,日野郡南部の佐野川など新しい水路の掘削による新田開発がよく知られている。幕末の主要産物は,会見郡を中心とする綿・木綿,日野郡・河村郡を中心とする鉄類で,久米郡倉吉で製造された鉄製の稲扱千歯も有名であった。西部の商業の中心は米子城下で,積出港でもあったが,弓浜半島の開発の進展とともにその北端の境が日本海海運の拠点として,米子をしのぐようになった。
執筆者:山中 寿夫
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山陰道八か国の一つ。現在の鳥取県の中・西部。東を因幡(いなば)、西を出雲(いずも)、南は美作(みまさか)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)に接し、北は日本海に面している。東に天神川、西に日野川が流れ下流に平野を形成し、海岸には北条(ほうじょう)砂丘や弓ヶ浜半島が発達しているが、大山(だいせん)火山群・中国山地を背にした山がちの国である。大山山麓(さんろく)から尖頭器(せんとうき)が発見され、さらに西の目久美(めぐみ)(米子(よなご)市)、東の島(しま)(北栄(ほくえい)町)などの平野の縄文遺跡が注目される。弥生(やよい)遺跡は平野を中心に分布し、銅鐸(どうたく)・銅剣ともに出土している。倉吉(くらよし)市の阿弥大寺(あみだいじ)遺跡の四隅突出型墳丘墓は弥生末期の墳墓である。東郷池周辺の北山・馬山(うまのやま)古墳は山陰で最大級の前方後円墳である。米子市の福市(ふくいち)・青木遺跡は大規模な古墳時代集落跡と知られている。律令(りつりょう)制下の伯耆国は、河村、久米(くめ)、八橋(やばせ)、汗入(あせり)、会見(あいみ)、日野(ひの)の6郡に48郷があり、国府は久米郡八代郷(倉吉市)に設けられた。古代末期には大山、三徳山(みとくさん)が山岳仏教の霊場として栄え、また、紀成盛(きのなりもり)、小鴨基康(おがももとやす)など在地豪族の武士化もみられた。鎌倉時代は北条氏一族が守護に兼補された。京都加茂社の会見郡星河荘(しょう)、久米郡稲積(いなづみ)荘、松尾社の東郷荘など因幡に比べて荘園が発展している。鎌倉末期になると在地領主の荘園押領(おうりょう)が激しくなる。東郷荘の下地中分はその典型的な例である。
1333年(元弘3・正慶2)後醍醐(ごだいご)天皇を奉じて船上山(せんじょうさん)に籠(こも)った名和長年(なわながとし)は、建武(けんむ)新政で重要な地位につき、伯耆の守護も兼ねた。しかし、1337年(延元2・建武4)北朝方の山名時氏(やまなときうじ)が伯耆守護に任じられ、山名一族の領国支配が確立する。しかし、応仁(おうにん)の乱のころから一族の内紛、国人層の反乱が続き、さらに、出雲に台頭した尼子(あまご)氏の伯耆進出によって山名氏は没落した。1563年(永禄6)東進する毛利(もうり)氏は尼子氏を破り、戦国末期には毛利氏の支配下にあった。羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉の鳥取城攻めにより、東は秀吉方の南条氏、西は毛利方の吉川(きっかわ)氏が封じられた。関ヶ原の役後、駿河(するが)から中村忠一(ただかず)が米子城に入った。その後、小大名の分割統治もあったが、1617年(元和3)池田光政(みつまさ)が、さらに1632年(寛永9)一族の池田光仲(みつなか)が鳥取城主となり因幡・伯耆2国がその領国となった。池田氏は、伯耆の要地、米子、倉吉、八橋、松崎に重臣を配置し、自分手政治という委任統治を行った。鉄と綿・木綿(もめん)が二大産物であり、鉄は近世初頭から日野郡を中心に、綿・木綿は中期以降弓ヶ浜半島など砂丘地の開発とともに急速に発達し、境港(さかいみなと)はそれらの積出し港として発達した。倉吉の稲扱千歯(いねこきせんば)は幕末に盛んになった特産物である。因伯2国の鳥取藩は池田氏の支配が続き、1871年(明治4)廃藩置県によって鳥取県となり、島根県との合併を経て81年鳥取県を再置、今日に及んでいる。
[福井淳人]
『『鳥取県史』全18巻(1967~82・鳥取県)』▽『鳥取県編『鳥取県郷土史』(1932・鳥取県/復刻版・1973・名著出版)』▽『山中寿夫著『鳥取県の歴史』(1970・山川出版社)』▽『徳永職男他著『ふるさとの歴史――江戸時代の因・伯』上下(80・新日本海新聞社)』▽『『角川日本地名大辞典 31 鳥取県』(1982・角川書店)』
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山陰道の国。現在の鳥取県西半部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では河村・久米・八橋(やはし)・汗入(あせり)・会見(あうみ)・日野の6郡からなる。国府・国分寺・国分尼寺は久米郡(現,倉吉市)におかれた。一宮は倭文(しとり)神社(現,湯梨浜町)。「和名抄」所載田数は8161町余。「延喜式」では調は絹・帛・鍬・鉄,庸は韓櫃(からびつ)・綿・鍬,中男作物は紅花・椎子(しいのみ)などを定める。鎌倉初期には日野川上流域の在地領主金持(かもち)氏が守護に任じられ,中期以降北条氏にかわった。西部の在地領主名和氏らは,隠岐島から後醍醐天皇を船上山(せんじょうさん)に迎え,建武の新政に参加した。戦国期には出雲国の尼子氏や安芸国の毛利元就(もとなり)が侵攻。江戸時代には,因幡国とともに鳥取藩池田氏の支配下におかれた。1871年(明治4)の廃藩置県により鳥取県となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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