日本歴史地名大系 「宝鏡院跡」の解説
宝鏡院跡
ほうきよういんあと
[現在地名]秋田市千秋北の丸
真言宗。「梅津政景日記」寛永七年(一六三〇)九月二八日条に、久保田城三の丸普請の進行について「三ノ丸二ノ段御普請所東之方先達被仰遣候如く、宝鏡院山之間堀口弐拾間ニ為掘候得者、宝鏡院之山ハ過半御堀に成候由申越候」とある。三の丸は、いわゆる北の丸。
宝鏡院の由緒は佐竹家中総系図に、「御祈祷所如意山台寺宝鏡院、開山宥喜法印、以前ハ太田天神浄月院住、義仁公之御時、嘉吉二年壬戌御建立、御祈祷所ニ被成、御祈祷初正月十二たるに依て、其例を以唯今に至て如此、御誕生日大般若転読之儀も義仁より始り、御代々勤之、四節一七日の行法、廿三夜待皆此時の例也」とあり、嘉吉二年(一四四二)以来、佐竹氏と密着した祈祷寺であった。
宝鏡院跡
ほうきよういんあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報