日本歴史地名大系 「宮崎郷」の解説 宮崎郷みやざきごう 愛知県:額田郡額田町木下村宮崎郷[現在地名]額田町宮崎・石原(いしはら)・中金(なかがね)・明見(みようけん)中世の郷で、東の作手(つくで)郷(現南設楽郡作手村)との境の巴(ともえ)山には日本武尊が登山したという伝説が残る。石原瑞雲(ずいうん)寺の寺伝では、同寺は天平六年(七三四)に行基の高弟林聖の開基と伝え、亀穴林瑞(かめあなりんずい)寺には寛平三年(八九一)に同寺の住職が近江国坂本(さかもと)より日吉(ひえ)神社を勧請して中金に祀るとの寺伝が残る。これらの伝説から古代よりの発展がうかがえる。「宮崎村誌」に、男(おと)川と支流の大洞(だいどう)川との合流点である中金の万足平(まんぞくだいら)の東北端に位置する日吉神社を中心に発展したので「宮崎」と称すとある。中世、男川(おとがわ)庄に属し、近世での石原村・中金村・亀穴村・明見村の四ヵ村の元村。中世では作手領の奥平氏との関係が深く、宮崎郷と称している。宮崎郷の範囲は、奥平氏家譜(生田家文書)では明見・石原・内久保(ないくほ)をあげ、中金は別にしている。貞享四年(一六八七)の入会山諍論裁許(鈴木家文書)にも「栃原中金河辺大代四ケ村者元来為一郷故山之境無之候」とある。この裁許文書には、延宝九年(一六八一)「双方御領所之時分、大代村与中金村致山論」とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by