木下村(読み)きのしたむら

日本歴史地名大系 「木下村」の解説

木下村
きのしたむら

[現在地名]箕輪町大字中箕輪なかみのわ 木下

伊那往還に沿った街村で、北は帯無おびなし川を隔てて松島まつしま村、東は天竜川境、南は久保くぼ(現南箕輪村)に接し、西方は原野広くいちみやの山麓に及んでいる。

天正六年(一五七八)の諏訪社上社の造宮所役に「宮大工精進免之造宮銭次第」として「木之下之郷」とあり、合一貫六七〇文を納めている(上諏訪大宮同前宮造宮帳)

慶長一七年(一六一二)うえだんに木下陣屋が置かれ、幕府領と私領の交代が激しかったが箕輪領の政治の中心地であった。


木下村
きぐたしむら

[現在地名]額田町木下

村域を東の千万町ぜまんぢよう村方向より支流大栗おおくり川を合流したおと川が蛇行して流れ、集落は乙川河岸段丘両岸に立地。東は千万町村、西は竹沢連たけざわれ村・寺平てらひら村、南は亀穴かめあな村・明見みようけん村、北は笠井かさい村・切山きりやま村と各々山で接する。中世、男川おとがわ庄に属したという。中世末期は奥平氏の支配下に属し、「三河志」に古屋舗跡として奥平三十郎の名を記す。

慶長六年(一六〇一)に岡崎藩領、同九年検地高一二四石余。正保二年(一六四五)岡崎藩主が本多家より水野家に替わる際に一部幕府領になる(岡崎市史)。天和元年(一六八一)より幕府領は鳥羽藩領に編入し、享保一〇年(一七二五)に再び幕府領となる。


木下村
きのしたむら

[現在地名]大宮市高木たかぎ

中釘なかくぎ村の東、大宮台地指扇さしおうぎ支台上にある。南に樹枝状の沖積低地がある。南方へ半島状に延びる台地の先端へ向かって阿弥陀寺あみだじ村・北野貝戸きたのがいと村が連なり、その先に当村の飛地がある。差扇さしおうぎ領に属した(風土記稿)。元和九年(一六二三)旗本山内領となったと考えられる(寛政重修諸家譜)。田園簿に木ノ下村とみえ、田一四六石余・畑二〇四石余、ほかに野銭永六八三文があり、山内領。元禄二年(一六八九)上知され幕府領となったが、宝永二年(一七〇五)旗本戸田氏は武蔵国内で一千石を加増され、このとき当村も戸田領になったとみられ、幕末まで同家に伝えられた(「寛政重修諸家譜」、寛政八年「足立郡村々高辻帳」都築家文書、改革組合取調書など)


木下村
このしたむら

[現在地名]亀山市木下町

亀山城の南西にあたる。小野おの村の川東に位置する鈴鹿川南岸の村。集落は丘陵上に立地する。地内みやまえに古墳時代後期の木下古墳がある。中世は神戸かんべ七郷の一。関谷せきだに二四郷の一に数えられる。永禄五年(一五六二)の永明寺領川上祠堂納(鈴鹿郡関町瑞光寺蔵)には、常住方納之分として作人「木下ノ新兵衛方」(納分二石)、同麦大豆之納として「木下彦三郎」(壱所代二石)がいたことを記している。近世は亀山藩領に属したが、元和元年―寛永一三年(一六一五―三六)の間は不明である(九九五集)


木下村
きのしたむら

[現在地名]墨田区八広やひろ六丁目・墨田四丁目、葛飾区四つ木よつぎ一丁目・同三丁目など

善左衛門ぜんざえもん村の南東にあり、古綾瀬ふるあやせ川が北東を流れる。対岸は四つ木村・渋江しぶえ(現葛飾区)木下川きねがわ村の荒地を開発して成立した村とされ、本村の名「木下川」の「川」を略して村名としたという(風土記稿)木野下きのした・木ノ下とも記される。元禄郷帳には木之下きのした村とあり、高一七六石余。


木下村
きしたむら

[現在地名]十文字町木下

東は下鍋倉しもなべくら(現平鹿町)、西は源太左馬げんたさま村、南は谷地新田やちしんでん村、北は樽見内たるみない(現平鹿町)と境する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に木之下村とみえる。村名の表記は、享保一四年(一七二九)の平鹿郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に木野下村・木下村などと記したとある。


木下村
きのしたむら

[現在地名]砺波市木下

新又あらまた村の東にあり、千保せんぼ川跡と新又川跡の間の微高地に位置する。北は六十歩ろくじゆうぶ(現高岡市)。村名は庄川が洪水となった時、材木が流れかかった場所に村立てされたことにちなむと伝える(貞享元年「村名由緒書上」加越能文庫)。元和五年(一六一九)の家高新帳には木ノ下とみえ、開発組に属し役家数四。正保郷帳では高二三一石余、田方一四町九反余・畑方五反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では木之下村で草高二二五石・免五ツ二歩、小物成はない(三箇国高物成帳)


木下村
きのしたむら

[現在地名]智頭町大内おおち

大内村枝村酒屋さかや千代川を隔てた山下に位置し、智頭街道が通る。枝村に石原いしわらがある(因幡志)。拝領高は六三石余。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高六八石余、毛付高八二石余、本免六ツ四分、同年の物成高五〇石余、ほかに川役米一斗が課されていた。「因幡志」では家数二。


木下村
きのしたむら

[現在地名]小倉南区木下

市丸いちまる村の北、むらさき川支流の東谷ひがしたに川上流域に立地する。秋月街道が通る。元和八年人畜改帳に木ノ下村とみえ、御蔵納分の高一六八石余、給人三人分の高三五〇石の二筆で、家数四五、人数九九(うち百姓一六)、牛一四・馬一一。郷村高帳では高四六〇石余、うち新田高四〇石余。幕末の各村覚書では本高四一九石余、田二四町六反余・畠一三町六反余、物成二五三石余、竈数六七・家数一三三・人数二九〇、牛四五・馬二七。


木下村
きのしたむら

[現在地名]荻町木下

波野なみの高原に続く肥後国との国境に接する標高六四〇メートル前後の集落。正保郷帳では藤原ふじばる郷に属し、田方五石余・畑方一〇四石余。弘化物成帳では葎原組のうち、村位は下、免三ツ七分、田四石余(四反余)・畑一〇五石余(二二町八反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田はなく、開畑七石余(一四町九反余)がある。


木下村
きのしたむら

[現在地名]福井市木下町

丹生山地北縁に東西に延びる砂地の小丘陵の北西麓に位置し、西は小幡こわた村と接する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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