宮川保・宮川庄
みやがわほ・みやがわのしよう
北川の支流野木川流域の宮川谷に所在が比定される。保・荘相互の領域的関係性は不明だが、近世の宮川谷四ヵ村、竹長村・本保村・大谷村・新保村の地域を領域とし、北方若狭湾に面する矢代浦も含んだ。宮河とも記される。
宮川庄は寿永三年(一一八四)二月七日付後白河院庁牒(弘文荘待賈文書、鳥居大路文書)に京都賀茂別雷社(上賀茂神社)領として宮河庄・矢代浦の名がみえ、この牒に引く同社司の解状によれば、寿永二年の秋より平家等が西海道をふさぎ、米や供菜も運上されず、平家追討のために下向した官兵も荘内に乱入し、「損亡御庄令□散庄民等」の有様であったという。この牒により平安末期に賀茂社領宮川庄が成立していたことが知られるが、寿永三年四月二四日付源頼朝下文案(賀茂別雷神社文書)にも、院庁下文に任せて方々の狼藉を停止した同社領荘園の書上の中に「若狭国 宮川庄 矢代浦」とみえる。貞永二年(一二三三)三月一三日付延暦寺政所下文案(貫達人氏所蔵文書)は「如別當社家訴状者、件宮河庄者、寛治聖代御寄進日供用途之其一也、住人者即為本社神人、勤仕社役之外、一向被免勅事国事畢、況無他煩、且不可兼帯他社神人之由(下略)」と記し、寛治年中(一〇八七―九四)の堀河天皇の寄進によるとし、住人は神人として勅事・国事などを免除されてきたとする。
この頃、荘内の矢代浦・大谷村に対して、山門(延暦寺)僧宗俊・宗慶等が濫妨を働いていたらしく、天福二年(一二三四)六月一八日の延暦寺政所下文(鳥居大路文書)で濫妨を停止している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 