多烏浦(読み)たがらすのうら

百科事典マイペディア 「多烏浦」の意味・わかりやすい解説

多烏浦【たがらすのうら】

若狭湾のうち田烏(たがらす)湾に面する集落で,現在の福井県小浜(おばま)市田烏にあたる。中世は多烏の表記でみえることが多く,近世初期に田烏の表記となった。鎌倉初期,耳西(みみにし)郷(福井県美浜町)の日向(ひるが)浦から移住した秦(はた)氏が若狭国守護であったという稲葉時貞の後援を得て開発したとされる。のち神護寺文覚(もんがく)によって同寺領西津(にしづ)荘(現小浜市)の一部となり,〈西津ノかた庄〉と称されたという。その後一時期後鳥羽(ごとば)院領となったが,承久の乱後もとに復し,北条氏得宗(とくそう)の被官人が地頭職を有し,浦百姓らは領主・地頭双方に〈浦御菜〉〈公事〉〈山手塩〉などを負担した。秦氏は刀禰(とね)職と鎮守禰宜(ねぎ)職を世襲し,江戸時代には庄屋を務めた。住人は古くから網漁に従事し,1273年には北隣の汲部(つるべ)浦とともに領主から沙汰人百姓らの寄合によるハマチ網漁の権利が認められている。多烏浦と汲部浦の間では相論も起こった。廻船業も盛んで,1272年に秦氏が所有していたと推測される〈徳勝(とくまさり)〉という船に,幕府から過所船旗が授与されている。中世末期には〈長衆(おとなしゅう)〉を中心とする(そう)が結ばれ,網場の共有・輪番使用などが行われた。江戸時代の田烏浦は,田烏川を境にして北田烏の田烏北・釣姫(つるべ)・谷及(たんぎょ)と,南田烏の田烏南・須ノ浦(すのうら)に分けられる。釣姫・谷及・須ノ浦には中世以来塩田が開かれており,南北両田烏の間では製塩に要する燃料のための山出入りをめぐる相論がしばしば起こった。網立をめぐっては隣接する矢代(やしろ)浦と奈胡(なご)崎をめぐっての相論があった。

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改訂新版 世界大百科事典 「多烏浦」の意味・わかりやすい解説

多烏浦 (たがらすのうら)

若狭湾岸中央部の半農半漁の集落。現福井県小浜市田烏。17世紀後期以後〈田烏〉と表記するが,古くは〈多烏〉であった。鎌倉初期,もと耳西郷日向浦(ひるがうら)(現,福井県三方郡美浜町日向)に住した秦成重兄弟が,時の若狭国守護稲葉時貞の後援を得て移住し,開発したと伝えるが,おそらくより古く平安期から浦人の居住が見られたと推測される。その後この浦は文覚上人のはからいで神護寺領西津荘の一部とされ,文覚配流により一時後鳥羽院領となったが,承久の乱後旧に復した。一方,乱後守護職を掌握した北条氏得宗の下で,その被官人が地頭職を知行し,浦の百姓らは領主・地頭双方に〈浦御菜〉〈公事〉〈山手塩〉などを負担した。成重以来定住した秦氏は,刀禰(とね)(沙汰人)職と鎮守の禰宜(ねぎ)職とを世襲し,江戸時代には庄屋を務め,長く浦百姓の中心的存在であった。百姓らは早い時期から網漁に従い,1273年(文永10)には北隣の汲部浦(つるべうら)ともども,沙汰人百姓らの寄合によるハマチ網漁の権利が領主から認可されている。廻船業も盛んであったらしく,1272年秦氏の所有と推測される船〈徳勝〉が幕府から授与された過書船旗が今に残る。中世末期には〈長衆〉を中心とする惣結合が見られ,〈惣山〉の形成,網場の共有・輪番使用の事実が確認される。江戸時代の田烏浦は村高百数十石の村落で,南田烏,須浦(すのうら),北田烏,釣姫(つるべ),谷及(たんぎよ)の諸浦を含み,田烏川を境に前2者を南田烏,他を北田烏と称し,それぞれに庄屋,組頭が置かれた。
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