宮里郷(読み)みやざとごう

日本歴史地名大系 「宮里郷」の解説

宮里郷
みやざとごう

現宮里町を遺称地とする。保延元年(一一三五)一〇月二五日の院主石清水権寺主大法師某下文(旧記雑録)に「薩摩郡并宮里郷」とみえ、五大院政所正信に対し院主に代わって宮里郷などの五大ごだい院領田畠耕作の管理を徹底するよう命じられている。薩摩国建久図田帳には宮里郷七〇町とみえ、このうち太宰府天満宮安楽寺社領七町五反(下司在庁道友)・豊前宇佐弥勒寺社領一町(下司僧経宗)、島津庄寄郡の公領六一町五反(郷司紀六大夫正家・地頭島津忠久)とある。紀正家の先祖は山城石清水いわしみず八幡宮の神人で、紀兼信のとき八幡宮の分霊を奉じて宮里に下向したと伝える。正家は建仁四年(一二〇四)二月一〇日の志奈男しなお(志奈尾)社への寄進状(旧記雑録)では宮里郷地頭を称している。正家の子孫は宮里郡司家として宮里城に拠り、宮里氏を称した。しかるに貞治元年(一三六二)島津総州家の師久に宮里城を攻略されて没落したとされる(川内市史)。一方、建久九年(一一九八)二月二二日には宮里郡司名田など島津庄内の郡司弁済使等名田が島津忠久に与えられた(「関東御教書案」島津家文書)。当郷地頭職は忠久以後忠時―久経―忠宗と継承され(文永二年六月二日「島津道仏置文案」同文書など)、文保二年(一三一八)三月一五日道義(忠宗)から四郎時久へと譲られた(「島津道義譲状案」同文書)。なお忠久の三男忠直の子泰忠は宮里氏を称した(宮里氏系図)。嘉暦三年(一三二八)の新田宮沙汰証人交名注文写(国分文書)には宮里郷地頭式部孫七・三分二地頭高崎二郎入道らの名がみえている。鎌倉末期には下司職・郡司職同様、地頭職も細分化されていった。

寛元元年(一二四三)八月一〇日の五大院主迎阿譲状(新田神社文書)には、八幡新田宮執印職などとともに嫡男惟宗友成へ譲与された本免田一五町九反のうちに宮里二町がみえる。宝治二年(一二四八)七月一九日の弾正忠某下知状(旧記雑録)には宮里郷益富ますとみ名主新大夫正持から名内字目形の田五反・薗二ヵ所に地頭代(本田氏)濫妨があったと訴えられている。建長五年(一二五三)七月のえもむ某田地譲状(有馬文書)では宮里郷内の水田一町などが子息宮王へ譲られ、翌六年五月二八日の島津忠時安堵状案(同文書)では郷内つるしま六反・とこなめ二町などの地が、仁治元年(一二四〇)二月一〇日のまさおかの譲状、宝治三年二月一〇日のまさつねの譲状どおり藤原氏女に安堵されている。文永一一年(一二七四)一〇月には郷内五町の地が八幡新田宮常灯免として寄進された(「某田地寄進状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報