家中新町
かちゆうしんまち
[現在地名]鶴岡市家中新町・新海町・本町三丁目
鶴ヶ岡城郭内、二の丸西門より西側を占める家中屋敷地。北・西・南は外堀で郭外と隔てられ、西側には北から万年橋口・大山海道口、南側には鍛冶町口の木戸がある。南西堀端には酒井家の菩提寺大督寺が置かれていた。酒井氏入部後の元和九年(一六二三)頃屋敷割された。その後当町には渋紙小路・伊予様小路・大山街(海)道口・経蔵小路・大督寺前通・百間堀端とよばれる地域が成立、これらの地は明治初年には各々家中新町を冠してよばれた。延宝六年(一六七八)の城下絵図には侍町とみえ、東端西堀道脇に左近様(酒井忠勝次男忠俊、寛文元年卒)元屋敷、ほぼ中央に牛之助様(忠俊嫡子、元禄二年卒)屋敷、南西大山街道口近くに牛之助様御茶園場がある。同年の御家中分限帳(鶏肋編)、元禄九年(一六九六)の城下大絵図に新町とみえ、明和七年(一七七〇)の城下絵図(鶴岡市郷土資料館蔵)に家中新町とある。左近様屋敷は元禄もしくは宝永(一七〇四―一一)頃藩主御用屋敷・御隠殿となった。文政四年(一八二一)頃の城下絵図によれば、一千石の朝岡助九郎などの屋敷があった。
〔渋紙小路〕
中央北寄りの南北に続く通りで、長さ一〇一間・幅二間(天保一二年「城下絵図」鶴岡市郷土資料館蔵)。町名については、盗賊が旅人を殺して路銀を奪い、死骸に路銀を包んであった渋紙をかけて逃げたという事件があり、その後毎夜渋紙をたたむ音が聞えるようになったなどの伝承がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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