家代村(読み)えしろむら

日本歴史地名大系 「家代村」の解説

家代村
えしろむら

[現在地名]諸塚村家代

標高一〇〇〇メートルを超える山々が連なる諸塚山系の南に位置する。東は宇納間うなま(現北郷村)、西は七ッ山ななつやま村、南は耳川を挟み山三やまさんヶ村(現西郷村)高千穂一八ヵ郷の一。天正五年(一五七七)島津軍が伊東氏の本拠都於郡とのこおり(現西都市)に迫るなか、伊東義祐は大友氏を頼って豊後へ落ちることを決意した。年未詳の山田宗昌覚書(山田文書)によれば、義祐は一二月一六日に中八重なかばえ(現西郷村)、一七日に「高知尾之内塚原」、一八日に塚原弾正の屋敷に宿り、一九日に「つゝらの原右京」に泊まり、その後高千穂を経て豊後国へ入った。塚原つかばるは当地塚原のことで、塚原弾正はここの土豪と推定される。また「つゝらの原」は当地の黒葛原つづらのはるである。江戸時代、北の九左衛門くざえもん峠を越える往還は駄賃付けの牛馬が通り七折ななおり(現日之影町)の代官所に向かう人々が往来した。


家代村
いえしろむら

[現在地名]掛川市家代

垂木たるき川の支流家代川の流域にあり、秋葉街道が通る。北東は上垂木村、北は遊家ゆけ村。「和名抄」にみえる佐野さや邑代いいしろ郷の遺称地とされ、中世には家代郷とみえる。天正一八年(一五九〇)一〇月七日の山内一豊知行宛行状写(一豊公記)によると、「家代村」のうちで五〇〇石が祖父江久右衛門に宛行われている。文禄二年検地高目録では高一千三八四石。元和五年(一六一九)以降は掛川藩領。正保郷帳では田方八九二石余・畑方一四八石余、ほかに福木寺(福来寺)領一石余がある。旧高旧領取調帳では掛川藩領一千一六二石余、福来ふくらい(現曹洞宗)除地一石余。文政一二年(一八二九)の御高等書留によると威鉄砲二があり、高一千一六二石余(うち新田三五石余)、毛付高一千七八石余の納辻米一千六七七俵余、家数一二二(本家九七・柄在家二五)・人数五二六、馬四一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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