宿野村(読み)しゆくのむら

日本歴史地名大系 「宿野村」の解説

宿野村
しゆくのむら

[現在地名]能勢町宿野

丹波国との境の剣尾けんび山南東麓に位置し、大路次おおろじ川が北から南西に流れる。南西を除いて山に囲まれ、南は下田尻しもたじり村・大里おおざと村、北は丹波国。集落は上宿野・中宿野・下宿野に分れ、各々上夙野・中夙野・下夙野とも記された(慶長一〇年摂津国絵図)。なお「摂津国風土記」逸文にみえる「下樋したび山」は剣尾山とされており、剣尾山頂近くにはもと月峯げつぽう寺があった。「日本書紀」雄略天皇一七年三月二日条に「土師連等に詔す、朝夕の御膳盛るべき清器を進ぜしめよと(中略)仍りて摂津国の来狭狭くささ村、(中略)の私の民部を進ず。名けて贄土師部と曰ふ」とあるが、この来狭狭村は当地一帯の旧名とみられており(摂津志ほか)、当地には式内社久佐々くささ神社がある。中世宿野庄として推移。能勢郡西郷郷士覚書写(東家文書)に南北朝初期と推定される宿野村の吉田氏以下三四氏が書上げられている。


宿野村
しゆくのむら

[現在地名]菰野町宿野

もり村の西にあり、巡見街道が村内の南西部を通り、金渓かんだに川が村の南部を流れる。「神鳳鈔」に「内宮須久野御厨三十丁、三石内」と出ている。建武元年(一三三四)より千種忠顕領地となった(菰野町史、禅林寺旧記)と伝え、天文―弘治年間(一五三二―五八)には千種常陸介忠治が領したという(宿野村地誌)。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳では家臣友松吉右衛門と荻須勘右衛門がそれぞれ「百参拾貫文」を知行している。江戸時代を通じて菰野藩領。

天明八年(一七八八)より勤高三六六石、文政五年(一八二二)よりは一二六石で、それぞれ一〇年間四日市宿の代助郷(旧版「四日市市史」)。また天保五年(一八三四)より一〇年間四日市宿、その後は石薬師いしやくし宿(現鈴鹿市)の代助郷となった(「菰城誌編纂下調綴」四日市市山路浩一氏蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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