富山城跡(読み)とやまじようあと

日本歴史地名大系 「富山城跡」の解説

富山城跡
とやまじようあと

[現在地名]富山市本丸・大手町・丸の内一―三丁目・総曲輪一―四丁目など

神通川といたち川の間の平坦地で、富山城下の北端、やや西寄りに位置。当初の富山城は戦国時代神保氏によって築かれたとされる。その後佐々成政、続いて加賀前田氏が拠り、富山藩成立後は、その居城となって幕末に至る。

〔戦国時代〕

築城以前から戦略上の拠点とされ、永正一六年(一五一九)越後守護代長尾為景が神保慶宗を討伐するため越中へ進攻した際、その軍勢はまず真見まみ(現駒見)と富山に陣を構え、続いて西の二上ふたがみ(現高岡市)攻めに向かっている(正月二七日「畠山尚順書状」上杉家文書)。天文一二年(一五四三)頃、神保長職が富山に築城したとみられる。当時、新川にいかわ郡は越後長尾氏の支配下にあったが、天文五年の長尾為景の死とそれに続く越後情勢の混乱によって、椎名氏の力が弱まった。こうした情勢を背景に、神保長職の新川郡進出が図られ、その足がかりとして神通川を越えて富山築城がなされた。天文一二年一〇月七日の畠山義続書状(尊経閣文庫所蔵文書)によると、義続は越中の抗争仲介のため、家臣を富山に派遣している。畠山氏の工作によって、翌年一応の和議が成立し(四月二四日「椎名長常書状」上杉家文書)、結果的に神保氏の富山進出が容認された。

富山城は天文から永禄(一五五八―七〇)初年にかけて神保長職の本城となったとみられる。同時期の神保氏の支配領域は、東は芦峅寺あしくらじ(現立山町)、西は氷見ひみに及んだという。神保氏支配下での富山城下についてはわからないことが多いが、慶長一五年(一六一〇)以前に書かれた往来物の体裁の「富山之記」によれば、富山城は二重の堀をもち、西の神通川が搦手にあたった。ここを一坪図書助が守り、北に寺嶋五郎が守る藤井ふじい口、東の大手には鞍河備後守が守る東勝寺とうしようじ口、南の妻手には槻尾民部少輔が置かれていた。家数は磯部いそべ口が二千軒、町人居住地域の藤井口が一千五〇〇軒であったという。藤井口の地名は「三州志」が富山町の古称は藤井村としているのと関連するかもしれない。南と東は軍事的防衛ラインであったと思われる。城の所在地については、近世富山城地説のほか、土居原どいはら町・堀端ほりばた町近辺とする説、星井ほしい町近辺説など諸説ある。築城者については一般に「三州志」の水越越前守勝重説がいわれている。神保長職の下で縄張奉行だったのであろうか。神保長職の富山在城は永禄三年までであろう。椎名氏を支援する長尾景虎(上杉謙信)は同年三月越中へ出陣し、富山城に攻め寄せた。


富山城跡
とみやまじようあと

[現在地名]岡山市矢坂東町・矢坂本町

矢坂やさか山山頂にある戦国―近世初期の山城。南北に延びる山頂の尾根約三〇〇メートルに本丸・曲輪・櫓・城門・堀切などが展開する。城地は備前・備中の国境に近く、しかも中世山陽道の約二キロほど南にあたり、西(備中)からの敵に備える要衝の地といえる。

富山大掾重興が仁和年間(八八五―八八九)に築城したと伝えられるが、中世、富山氏がその居城として築いたものと考えられる。城名は富山大掾が居城したことによるといい、また万成まんなり山の城・大安寺だいあんじ城・矢坂山の城などともよばれた(和気絹)。応仁元年(一四六七)金川かながわ(現御津郡御津町)を拠点とした松田元隆が応仁の乱において細川方の赤松氏の下で軍功をたて、当城を富山氏から奪って改修・居城(備前軍記)、永禄一一年(一五六八)宇喜多直家に滅ぼされるまで松田氏の備前西部支配の拠点であった。


富山城跡
とみやまじようあと

[現在地名]高山町富山

肝属川中流に注ぐ中山なかやま川右岸、標高六〇メートルを最高地点とする北西から南東に延びるシラス台地を主とする丘陵上にある山城跡。文明六年(一四七四)の行脚僧雑録(旧記雑録)に肝付分の城として富山がみえる。肝付氏は当時は高山城を本拠としており、同城の北西約一〇キロにある当城は同氏の支城の一つであった。築城の時期などについてははっきりしない。永禄(一五五八―七〇)初年頃肝付氏の勢力が最大になった際にも同氏領であったが(高山名勝志)、天正五年(一五七七)同氏が高山以外の所領を島津氏に没収された際には当城に付属する所領富山は没収の対象としてはみえず、これ以前に廃城になっていたと推定される。


富山城跡
とみやまじようあと

[現在地名]岩井市矢作

竜見前りゆうけんまえ城の西、浅間あさま沼のヤトを越えた向地むこうちに所在。東・南・西を浅間沼とそのヤトに囲まれた舌状台地。戦国時代に富山氏が竜見前城を攻略したのち、当地に新たに築構したものと伝えられる。周りには空堀と土塁が残り、南には「人呼びの丘」がある。北方のなかだいには張谷修理の館があった。もとは富山氏の氏神、浅間せんげん神社があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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