富田勢源(読み)とだせいげん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「富田勢源」の意味・わかりやすい解説

富田勢源
とだせいげん

生没年不詳。戦国時代の剣術家。中条(ちゅうじょう)流の嫡伝、富田治部左衛門景家(かげいえ)の次子。通称五郎左衛門。越前(えちぜん)朝倉氏の本拠一乗谷(いちじょうだに)の浄教寺(じょうきょうじ)村に生まれ、少年時代から厳しい剣術の修行に励み、兄九郎左衛門郷家(さといえ)の早世により道統を継いだ。1560年(永禄3)の夏、美濃(みの)を周遊中、領主斎藤義龍(よしたつ)の要請を受け、常州鹿島(かしま)の神道(しんとう)流の達人梅津某と試合して、これに勝って剣名をあげた。しかし持病眼疾が悪化して失明。弟の与五郎、後の治部左衛門景政(かげまさ)に家督および道統を譲って剃髪(ていはつ)し、勢源入道と号し、一乗谷に一草庵(そうあん)(その遺跡がいまの盛源寺という)を建てて隠棲(いんせい)したというが、1573年(天正1)朝倉氏滅亡後の消息は明らかではない。

[渡邉一郎]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「富田勢源」の解説

富田勢源 とだ-せいげん

?-? 戦国時代の剣術家。
富田景家の次男。兄郷家(さといえ)が早世したため,中条流(富田流)をつぐ。のち眼病のため弟の景政(かげまさ)に家督をゆずり隠退した。永禄(えいろく)3年(1560)美濃(みの)(岐阜県)で神道流の達人梅津某との試合にかってその名をあげたという。越前(えちぜん)(福井県)出身。通称は五郎左衛門。

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