②ははじめ「なかじょうりゅう」と呼んでいたが、江戸後期に至って「ちゅうじょうりゅう」と称するようになった。
(1)近世剣術諸流の三大源流の一つ、念流に連なる古流で、中条流平法(へいほう)という。『武芸小伝』をはじめ多くの武術書では、同流の始祖を応仁(おうにん)(1467~69)のころの相州鎌倉の人、中条兵庫助(ひょうごのすけ)としている。兵庫助は檀那寺(だんなでら)である地(寿)福寺の僧慈音(じおん)(念流の祖、俗名相馬四郎義元(そうましろうよしもと))に会い、彼について剣術を修行すること数年、ついにその奥旨を伝授され、これを中条家伝来の兵法に組み入れて一流をたて、中条流を称したという。そののち越前(えちぜん)(福井県)の守護斯波(しば)氏の老臣であった甲斐豊前守広景(かいぶぜんのかみひろかげ)に伝え、さらに大橋勘解由左衛門高能(かげゆざえもんたかよし)を経て、朝倉氏の臣富田九郎左衛門長家(ながいえ)に伝えたという。この流儀は小太刀(こだち)を得意とし、この門流から富田勢源(せいげん)、富田一放(いっぽう)(一放流祖)、長谷川宗喜(そうき)(長谷川流祖)、鐘捲自斎通家(かねまきじさいみちいえ)(鐘捲流、外他(とだ)流祖)、伊藤一刀斎景久(かげひさ)(一刀流祖)などの優れた剣術家を輩出し、一大源流とよばれるに至った。なお富田流系図では兵庫助を、三河国挙母(ころも)(愛知県豊田(とよた)市)の名族中条氏の出身で、室町幕府に出仕し、将軍足利義詮(あしかがよしあきら)・義満(よしみつ)に仕えて、恩賞方、造営奉行(ぶぎょう)、評定衆(ひょうじょうしゅう)などを歴任し、歌人としても知られる中条兵庫頭(ひょうごのかみ)入道長秀(ながひで)にあてている。(2)豊臣(とよとみ)秀吉に仕えた金瘡(きんそう)医、中条帯刀(たてわき)の流名。本来は戦陣における刀槍(とうそう)、鉄砲などの負傷を治療するのが主体であったが、余暇に婦人の産術を兼ね施した。江戸時代に入って泰平となり、兵用は皆無となり、堕胎手術を専門とする似非(えせ)医者の多くが中条流の看板をあげたため、川柳(せんりゅう)などの好題材にされた。「なかじょうりゅう」ともいう。
[渡邉一郎]
中条は仲条とも書き、また「ちゅうじょう」とも読み、両説がある。江戸時代の産科婦人科医の一派。流祖は豊臣(とよとみ)秀吉の家臣と伝えられる中条帯刀(たてわき)と、仙台藩の侍医中条養喜との二説がある。異常妊娠などの際の胎児処理法を利用して、堕胎を行う者があり、また堕胎医が中条流を偽称した場合もあり、川柳(せんりゅう)の題材に扱われるなど、堕胎専門医の通称として有名であった。
[原島陽一]
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…それに,異常分娩に対する工夫も,胎児よりはむしろ母体を助ける方法であった。いわゆる中条流として,江戸時代に流産や堕胎を専門におこなう業者があり,かなり需要も多かったというが,また失敗も少なくなかったと思われる。 このような業者以外に,江戸時代には,江戸,京都,大坂をはじめ,全国各地に商業都市が勃興し,人口を集め,医療需要も高まったことから,開業医数も増加した。…
…しかし一方では出産の困難,異常妊娠,母体保護等から中絶を必要とする場合のため,近世以後医師の手で手術が行われることとなり,その方法も危険を伴うことが減じた。ことに京都で15世紀末ころから発達した産科中条流の名はひろく各地に知られ,都市を中心に流行した。いうまでもなく非合法の場合も多かったので,川柳などによまれて諷刺の対象ともなっている。…
…86年(貞享3年)2月,ゆえあって養子十大夫とともに改易となったが,翌年許され,十大夫長寛は喜多家を相続して4世七大夫を名乗り,宗能は中条嘉兵衛直景と改名,後には従五位下河内守,また丹波守を名乗り,1715年(正徳5)隠居して祐山と称した。許された後も能役者としての活動は続き,中条流を称した。隠居後は諸大名に謡本を相伝し,将軍御前で謡を披露するなど活躍した。…
※「中条流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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