日本大百科全書(ニッポニカ) 「富田重政」の意味・わかりやすい解説
富田重政
とだしげまさ
(1564―1625)
戦国時代の武将、剣術家。富田流の確立者。越前(えちぜん)(福井県)の生まれ。初名山崎与六郎、のち六左衛門。幼少から父山崎与三兵衛景邦(よそうべえかげくに)について中条(ちゅうじょう)流を習い、12歳のとき前田利家(としいえ)に召し出されて近侍となり、1584年(天正12)、末森(石川県羽咋(はくい)郡宝達志水(ほうだつしみず)町)の合戦で一番槍(やり)の功をたて、望まれて七尾(ななお)城代富田治部左衛門景政(かげまさ)の女婿となり、富田姓とともに富田流の道統を継いだ。その後数々の合戦に武功を重ね、1596年(慶長1)従(じゅ)五位下、下野守(しもつけのかみ)に任じ、ついで越後(えちご)守と改め、1601年には増禄(ぞうろく)して1万3500余石に達した。ついで大坂の陣には前田の武将として活躍し、甲首(こうしゅ)19をあげた。将軍秀忠(ひでただ)の召命により剣術について言上し、名を四海に現し名人越後とよばれた。重政に3子あり、長子重家(しげいえ)、三男宗高(むねたか)は20代で早世し、次男重康(しげやす)は中風を患い42歳で世を去り、その1子重次(しげつぐ)も16歳で夭折(ようせつ)し、富田家の正統は絶え、富田流も急激に衰退した。
[渡邉一郎]