富田高慶(読み)とみたたかよし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「富田高慶」の意味・わかりやすい解説

富田高慶(とみたたかよし)
とみたたかよし
(1814―1890)

幕末・明治期の農政家。二宮尊徳(にのみやそんとく)の高弟陸奥(むつ)国(福島県)相馬(そうま)藩士斎藤嘉隆の二男に生まれる。通称久助。任斎(じんさい)と号した。1830年(天保1)江戸の国学者屋代弘賢(やしろひろかた)の門に入るが、救国済民の策を求め、1839年野州(やしゅう)桜町(栃木県真岡(もおか)市)に二宮尊徳を訪ねて入門した。1845年(弘化2)相馬藩が、衰廃した領内の再興を尊徳に懇請したので、尊徳の代理として仕法指導のため帰国した。以来廃藩まで27年間、101か村の復興事業に尽力し、大いにその実績をあげた。1852年(嘉永5)尊徳の娘文子を妻に迎えたが翌年死別。のち尊徳の孫高英(たかひで)を養子にした。1868年(明治1)の戊辰(ぼしん)戦争には、奥羽列藩同盟に加わった相馬藩の去就の決定に僧慈隆(じりゅう)とともに活躍。著書に『報徳記』がある。栃木県日光(にっこう)市の二宮神社に合祀(ごうし)。

[小野一雄]


富田高慶(とみたこうけい)
とみたこうけい

富田高慶

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「富田高慶」の解説

富田高慶 とみた-たかよし

1814-1890 江戸後期-明治時代武士,農政家。
文化11年6月1日生まれ。陸奥(むつ)中村藩(福島県)藩士。江戸で屋代弘賢(ひろかた)に入門,のち二宮尊徳の高弟となる。弘化(こうか)2年帰郷,尊徳の代理として藩財政の再建と農村復興につくす。維新後,士族授産につとめ,明治10年興復社を設立した。明治23年1月5日死去。77歳。本姓は斎藤。字(あざな)は弘道。通称は久助。号は任斎。著作に「報徳記」。

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367日誕生日大事典 「富田高慶」の解説

富田 高慶 (とみた たかよし)

生年月日:1814年6月1日
江戸時代;明治時代の農政家
1890年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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