富田高慶(読み)とみた・たかよし

朝日日本歴史人物事典 「富田高慶」の解説

富田高慶

没年:明治23.1.5(1890)
生年:文化11.6.1(1814.7.17)
幕末・明治前期の報徳運動家。磐城国(福島県)相馬藩士斎藤嘉隆の次男。二宮尊徳の娘文子と結婚。通称久助,字は弘道,任斎と号した。天保1(1830)年江戸に出て国学者屋代弘賢,儒者古賀精里に学ぶが,10年尊徳を下野国桜町陣屋(栃木県芳賀郡二宮町)に訪ねて門人となり,桜町,下館の仕法を助けた。弘化2(1845)年相馬へ帰り,窮乏した藩財政の立て直しと農村復興のため,報徳仕法を施行して成功させた。のち家老として藩政の中枢に参与したが,維新後は相馬藩士の帰農をはかり,明治4(1871)年磐前県に出仕,管内の開拓をすすめた。10年尊徳の孫尊親らと興復社を結社して社長となり報徳運動を指導した。尊徳の事業と言行を集成した『報徳記』(復刻,1949。岩波文庫)は,のち宮内省,農商務省,大日本農会から,それぞれ刊行され,報徳思想の普及に大きな影響を与えた。<参考文献>大槻吉直『富田高慶翁伝』,佐藤高俊編『富田高慶日記』,『相馬市史』3巻

(海野福寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「富田高慶」の意味・わかりやすい解説

富田高慶(とみたたかよし)
とみたたかよし
(1814―1890)

幕末・明治期の農政家。二宮尊徳(にのみやそんとく)の高弟陸奥(むつ)国(福島県)相馬(そうま)藩士斎藤嘉隆の二男に生まれる。通称久助。任斎(じんさい)と号した。1830年(天保1)江戸の国学者屋代弘賢(やしろひろかた)の門に入るが、救国済民の策を求め、1839年野州(やしゅう)桜町(栃木県真岡(もおか)市)に二宮尊徳を訪ねて入門した。1845年(弘化2)相馬藩が、衰廃した領内の再興を尊徳に懇請したので、尊徳の代理として仕法指導のため帰国した。以来廃藩まで27年間、101か村の復興事業に尽力し、大いにその実績をあげた。1852年(嘉永5)尊徳の娘文子を妻に迎えたが翌年死別。のち尊徳の孫高英(たかひで)を養子にした。1868年(明治1)の戊辰(ぼしん)戦争には、奥羽列藩同盟に加わった相馬藩の去就の決定に僧慈隆(じりゅう)とともに活躍。著書に『報徳記』がある。栃木県日光(にっこう)市の二宮神社に合祀(ごうし)。

[小野一雄]


富田高慶(とみたこうけい)
とみたこうけい

富田高慶

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「富田高慶」の解説

富田高慶 とみた-たかよし

1814-1890 江戸後期-明治時代の武士,農政家。
文化11年6月1日生まれ。陸奥(むつ)中村藩(福島県)藩士。江戸で屋代弘賢(ひろかた)に入門,のち二宮尊徳の高弟となる。弘化(こうか)2年帰郷,尊徳の代理として藩財政の再建と農村復興につくす。維新後,士族授産につとめ,明治10年興復社を設立した。明治23年1月5日死去。77歳。本姓は斎藤。字(あざな)は弘道。通称は久助。号は任斎。著作に「報徳記」。

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367日誕生日大事典 「富田高慶」の解説

富田 高慶 (とみた たかよし)

生年月日:1814年6月1日
江戸時代;明治時代の農政家
1890年没

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