日本歴史地名大系 「寒江庄」の解説
寒江庄
さぶえのしよう
現在の富山市
当庄の回復に成功した梨木祐有は、応永二年(一三九五)に下鴨社の極官従三位に若年の身で就くとともに(公卿補任)、権勢に任せて社領の私領化を進めた。同年三月一〇日の弁官土御門資家奉書(神戸記)によれば、根本社領である倉垣庄とは違い、別納地として「分領」扱いとなっている。以後も「日供并夏季御神楽両役」を社納しながら、祐有の私領となった(同書)。応永九年になって広庭祐詞県主から当庄所領相続の要求が出されたが、足利義満の了解のもとに棄損され、同年二月に祐有の知行権が再確認された(同月二五日「坊城俊任書状」同書など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報