寒江庄(読み)さぶえのしよう

日本歴史地名大系 「寒江庄」の解説

寒江庄
さぶえのしよう

現在の富山市呉羽くれは町・北代きただい八町はつちよう一帯にあたる。古代の射水寒江さむえ郷の系譜を引くと考えられる。明徳四年(一三九三)七月一三日の右馬頭某範氏奉書および同月二二日の将軍家御教書(賀茂御祖皇大神宮諸国神戸記、以下神戸記と略記)で、倉垣くらがき庄とともに京都下鴨社の日供料所として同社社務職に付されている。しかし当庄は元来下鴨社の根本神領地だったのではなく、永享元年(一四二九)九月日の賀茂社禰宜祐上申状(同書)によれば、社務広庭祐内県主家代々の相伝地であり、その由緒は鎌倉期までさかのぼるであろう。だが祐内時代に御神楽役の上納を怠り、しかも子供の祐詞・祐広兄弟が相論・抗争したため、応安元年(一三六八)から康暦二年(一三八〇)の間に越中守護斯波義将によって収公され、次の守護畠山氏にも押領された。その結果、以前の当庄関係文書が失われたという事情も関係して、社家梨木祐有が「神領失墜、御神楽断絶」を嘆き、朝廷等に下鴨社への返還を申請した。こうして明徳四年に社務祐有に付され、ここに社務職の相伝地に加えられた(同書)

当庄の回復に成功した梨木祐有は、応永二年(一三九五)に下鴨社の極官従三位に若年の身で就くとともに(公卿補任)権勢に任せて社領の私領化を進めた。同年三月一〇日の弁官土御門資家奉書(神戸記)によれば、根本社領である倉垣庄とは違い、別納地として「分領」扱いとなっている。以後も「日供并夏季御神楽両役」を社納しながら、祐有の私領となった(同書)。応永九年になって広庭祐詞県主から当庄所領相続の要求が出されたが、足利義満了解のもとに棄損され、同年二月に祐有の知行権が再確認された(同月二五日「坊城俊任書状」同書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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