寺林村(読み)てらばやしむら

日本歴史地名大系 「寺林村」の解説

寺林村
てらばやしむら

[現在地名]鳳来町富栄とみさか

三輪みわ川右岸の段丘上にあり、南西におくわ山が張出して下平しもだいら村との壁になっている。対岸大野おおの村・井代いしろ村を望む。寺下てらげ川右岸の寺林村共有地余無行よむぎようから出る、葱皮状構造の頁岩からつくる硯は金鳳石といい、のみとあらどでつくるため、一日三丁しかできず、高価であった。硯製造所は村内に二戸あり、製品は大野おおので販売された。硯製造は天明年間(一七八一―八九)から明治二〇年代まで続いた(長篠村誌)


寺林村
てらばやしむら

[現在地名]玉山村寺林

北上川左岸に位置し、奥州街道に沿う。西は北上川を隔てて永井ながい村、南は西郡にしこおり川を隔てて巻堀まきぼり村。「雑書」慶安二年(一六四九)一〇月二四日条に寺林とみえ、追鳥奉行同心二人が派遣されている。元文五年(一七四〇)の沼宮内通絵図(佐藤家蔵)に村名があり、街道沿いに家並がみえる。「邦内郷村志」では蔵分三石余・給分四二石余、家数一五で、うち才津さいづ一・二津森ふたつもり一、馬六九。享和三年(一八〇三)の仮名付帳には家数一九で、枝村なしと記す。「管轄地誌」に田三町二反余・畑四五町一反余、宅地・荒地計五二町余、家数二八・人数一六八、馬六四。


寺林村
てらばやしむら

[現在地名]神岡町寺林

山田やまだ川を狭んで南北二ヵ所に集落をなし、比較的平坦地が多い。東は峠越しに吉田よしだ村、西は堀之内ほりのうち村。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では「上山田村所々七村」に含まれ、同一八年の郷帳では高原たかはら郷に属し、高一三三石余寺林村、四二石余向寺林村とある。元禄検地反歩帳では高二四六石余、田一六町八反余・畑一一町三反余。「飛騨国中案内」では免五割四分八厘余、家数三六(うち百姓二四・門屋一〇・地借二)


寺林村
てらばやしむら

[現在地名]作手村白鳥しろとり

相月あいつき村の北に低い丘を挟んで接する。慶長七年(一六〇二)より作手藩領、同一五年より幕府領、天和元年(一六八一)より鳥羽藩領、享保一一年(一七二六)より幕府領、安永六年(一七七七)より五千石の旗本鍋島直賢領となり幕末に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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