寺河戸村(読み)てらこうどむら

日本歴史地名大系 「寺河戸村」の解説

寺河戸村
てらこうどむら

[現在地名]荘川村寺河戸・三谷(さんだに)

庄(しよう)川の支流寺河戸川の流域に開けた村。北は三尾河(みおご)村、南は山中(やまなか)峠を経て美濃国郡上(ぐじよう)郡に通じる。金森長近によって口留番所が置かれた(飛騨国中案内)。山中峠の頂上付近に「カマクラミチ」とよぶ道跡がかすかに残る。白川(しらかわ)郷から鎌倉へ上る中世の戦略路であったという。天文一六年(一五四七)・同二三年の白山大噴火のため一色(いつしき)村牧(まき)ヶ野(の)一帯に大降灰があり、凶作が続いたため住民は濃州粟野(あわの)(現岐阜市)へ移住、永禄九年(一五六六)帰郷して河戸の奥地を切開いたのに始まると伝える(荘川村史)。


寺河戸村
てらかわどむら

[現在地名]瑞浪市寺河戸町・宮前町(みやまえちよう)・上野町(うえのまち)・一色町(いつしきちよう)・樽上町(たるうえちよう)・高月町(たかつきちよう)・須野志町(すのしちよう)

蛇行して流れる土岐川の両岸の平坦地にある。西は小田(おだ)村。建武三年(一三三六)一一月一日の足利尊氏御教書写(金沢市立図書館蔵松雲公採集遺編類纂)に小田保の内として寺河戸とみえる。村名は神篦の法明(こうののほうみよう)寺への渡場があったことに由来するともいわれる。慶長六年(一六〇一)には当村のうち五〇石余が木曾組衆頭に与えられた(「木曾衆知行目録写」徳川林政史研究所蔵)。慶長郷帳では木曾組衆領のほかに旗本小里光親領五七九石余がある。小里領は元和九年(一六二三)以後幕府領。正保郷帳では田四七六石余・畑九四石余・山高八石余。畑方のうち四〇石余は木曾衆山村良豊知行のうちと記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ノーベルがスウェーデンアカデミーに寄付した遺産を基金とする世界的な賞。1901年以降行われ、毎年、物理学・化学・生理学および医学・文学・平和・経済学の6部門において、顕著な功績のあった人に授与される。...

ノーベル賞の用語解説を読む