日本歴史地名大系 「一色町」の解説 一色町いつしきちよう 東京都:江東区旧深川区地区一色町[現在地名]江東区福住(ふくずみ)一丁目油(あぶら)堀の南岸に位置する町屋。深川一色(ふかがわいつしき)町とも称した。西は油堀の枝川を挟んで松賀(まつが)町、東は油堀を挟んで平野(ひらの)町など、南は伊沢(いざわ)町など。平野町には富岡(とみおか)橋、松賀町に緑(みどり)橋が架かる。深川築地二四ヵ町の一。文政町方書上によるともとは寄洲で、寛永年間(一六二四―四四)には三十間堀(さんじつけんぼり)(現中央区)辺りの材木問屋の木置場であった所を、元禄一四年(一七〇一)霊岸島銀(れいがんじましろがね)町(現同上)の伊勢屋又四郎ほか七名の者が町屋敷として購入し、残りの土地は御坊主衆拝領町屋敷となる。正徳三年(一七一三)町奉行支配となった。町名は古くからの材木問屋一色十左衛門にちなむという。町内総間数は京間で一四三間。 一色町いつしきまち 三重県:桑名市桑名城下一色町[現在地名]桑名市一色町鍛冶(かじ)町の南にあり、南北二条長さ一二〇間余の中級藩士の屋敷地。東一色(ひがしいつしき)町・西一色町と分称する。東・南・西の三方は堀で囲まれ、土塁となっている。当町が武家屋敷地となった時代は明らかでないが、旧名を色(いろ)町といい、「久波奈名所図会」には「中古七ツ屋一色町には妓館ありて売婦多かりし」とある。当町から西へ、江場(えば)村掛樋(かけひ)に通じる新(しん)橋があり、同図会に「西一色町より三町懸并矢田河原への通路なり、正徳年中総州忠雅公当所御入城の後御足軽の住宅矢田川原并新地(しんち)に出来す、是によつて参勤自由の為に此橋かかるといふ」とある。 一色町いしきちよう 愛知県:幡豆郡一色町面積:二二・一八平方キロ愛知県の南部、矢作川の最下流に発達する沖積三角州上に位置し、北は西尾市、東は吉良(きら)町に接する。知多湾に浮ぶ佐久(さく)島を含む。赤羽(あかばね)地区や佐久島に、原始時代の遺跡が残っているが、十分な調査は行われていない。藤原宮跡(現奈良県橿原市高殿)や平城宮跡出土の木簡に、佐久島の「伊支須」や「佐米楚割」の文字がみえ、古代都とのつながりを知ることができる。中世に至り、足利氏の一族である公深は幡豆郡吉良庄一色の地を領し、一色をもって氏としている。一色氏はやがて一色の地を離れるが、その主流は室町幕府の中枢となり、支流も下総・尾張・三河の各地で活躍する。 一色町いつしきちよう 京都市:上京区嘉楽学区一色町上京区五辻通浄福寺東入町の中央を東西に五辻(いつつじ)通が、東を南北に浄福寺(じようふくじ)通が通る。町名は室町時代に、幕府四職の一として権勢を誇った一色氏の邸宅があったと伝えられることによるという(坊目誌)。寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「一色殿丁」とみえ、町の南には間口五二間、奥行四八間の織田出雲守の屋敷が記される。寛文後期洛中洛外之絵図には「一色丁」とあり、以後、現町名が用いられた。また承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図には西隣の西五辻東町にわたって「西五辻丁」とあり、その後「京雀」や「京雀跡追」、元禄九年(一六九六)と正徳・享保間京大絵図も同様に記すので、近世には両町名が併用されたらしい。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by