対雁学校(読み)ついしかりがつこう

日本歴史地名大系 「対雁学校」の解説

対雁学校
ついしかりがつこう

明治一三年(一八八〇)樺太アイヌ子弟の教育のために、移住アイヌ耕宅地のほぼ中央、石狩川河畔(現工栄町地先の同川河川敷)に建てられた官立学校。同八年の日露の樺太千島交換条約で、樺太南部からのアイヌ移民をいったん宗谷に移住させ、翌年石狩川河畔対雁に再移住させた。翌一〇年子弟教育のため製網所内に教育所を設け官立学校となる。同一三年石狩川河畔に校舎を建て対雁学校とした。現市域最初の学校で、最盛時の生徒数は七〇人に達したが、住民は漁労生活者であったため石狩浜に移る者が多く、同一九年就学者がなくなり廃校となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「対雁学校」の意味・わかりやすい解説

対雁学校
ついしかりがっこう

明治前期のアイヌ教育機関。開拓使学務局は、1877年(明治10)、樺太(からふと)・千島(ちしま)交換条約締結によって対雁村(北海道江別市)に強制移住させた樺太アイヌの子弟を対象とした教育所を設置し、日常生活に必要な日本語の読み書きアイヌ語で教授した。同校は翌78年に小学校として認められたが、86年ころにはアイヌの石狩への移住に伴って、アイヌ教育機関という創立時の性格が失われていった。当時の生徒の1人であった山辺安之助の著書『あいぬ物語』(1913)は、同校の教育実態を知るうえで貴重な文献である。

[竹ヶ原幸朗]

『山辺安之助著『あいぬ物語』(河野本道選『アイヌ史資料集第六巻 樺太編』所収・1980・北海道出版企画センター)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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