金田城(読み)かなだじょう

百科事典マイペディア 「金田城」の意味・わかりやすい解説

金田城【かなだじょう】

対馬(つしま)の中央部にある浅茅(あそう)湾に臨んで造築された7世紀の朝鮮式山城(さんじょう)。跡地は長崎県対馬市美津島町黒瀬城山(じょうやま)にあり,国指定特別史跡。〈かねたのき〉ともいう。白村江(はくそんこう)の戦に敗れたあと,唐・新羅(しらぎ)に対する防衛一環として667年に倭(やまと)国高安(たかやす)城・讃吉(さぬき)国屋島(やしま)城とともに築かれたもので(《日本書紀》),対朝鮮半島の最前線にあった。標高275mの山頂部に石塁があり,全山を取り巻くように石垣が巡らされ,城壁の総延長は残存の2.8kmを含めて5.4kmと想定される。南東麓はやや緩やかな斜面で,三つの谷は石垣で閉鎖され,城門・水門が設けられており,一ノ木戸・二ノ木戸・三ノ木戸・蔵の内などの地名としても残っている。城壁の高さは約4.5〜7mに及ぶ。1998年二重の土塁から出土した二つの炭化物を炭素同位体法により測定すると,1つは540年から630年,もう1つは590年から650年という結果が出て,白村江の戦以前からこうした土塁を築造する必要(政治・軍事的緊張か)があったことが想定される。→大野城基肄城
→関連項目高安城

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改訂新版 世界大百科事典 「金田城」の意味・わかりやすい解説

金田城 (かなだじょう)

長崎県対馬,対馬市の旧美津島町黒瀬の城山に築かれた古代の朝鮮式山城。白村江敗戦後の防衛態勢整備の一環として,667年(天智6)に倭(やまと)国の高安城,讃吉(さぬき)国の屋島城とともに築かれた。浅茅(あそう)湾の南岸にあって湾内に突き出た半島の先端部に位置し,湾口の大口瀬戸方面を一望できる。建物跡などは未確認であるが,275mの山頂から尾根伝いに築かれた石塁が東側の緩斜面を取り込み,その総延長は約3kmにも及ぶ。崩壊の著しい所も少なくないが,山頂部や東側山腹部の石塁はよく遺存している。東側斜面にある3本の谷にはそれぞれに比較的小さな水門があるが,これは城内に入るための通路でもあり,門柱礎石なども遺存し,古くより北側から一の木戸,二の木戸,三の木戸と呼び伝えている。半島の東北突端には式内社の大吉戸神社が鎮座する。かつては城跡を対馬市の旧厳原(いづはら)町佐須金田に比定する見解もあったが,現在ではほぼ否定されている。
山城(さんじょう)
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金田城」の意味・わかりやすい解説

金田城
かねだじょう

天智6 (667) 年 11月大和朝廷が対馬に築いた城。「かなたのき」とも読み,また対馬城ともいう。城址は長崎県対馬市美津島町城山,同市厳原町小茂田に比定する両説がある。唐,新羅の入寇に備え,最前線の基地として築いたもの。

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